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団員の投稿ページ

六甲男声の団員の多彩な趣味、関心事などを載せています。

タイトルをクリックすると記事にジャンプします。

NEW六甲男声合唱団入団の経緯 望月 薫博 2024/03/08投稿
男声合唱との出会い 板敷 勝 2022/12/21投稿
皆さん、よろしくお願いします。 永井 哲郎 2022/02/19投稿
吉永豊彦さん(B・17回生)の思い出   永井 哲郎 2021/07/23投稿
六甲男声合唱団に入団して   佐藤 敏弘 2020/05/02投稿
六甲男声合唱団に入団して   白川 秀司 2019/10/10投稿
2019/ANCOR 合同演奏 ≪大中恩 作品集≫ に寄せて   田中 安夫 2019/01/12投稿
六甲男声合唱団に入団して   奥村 隆 2018/11/04投稿
J.Strauss,Jr "An der Schönen Blauen Donau"(1825~99) -「1996ミュンヘン発売のヨハン・シュトラウスCD全集第51巻の解説  (英国及びスエーデンのヨハンシュトラウス協会等の協力を得ている)」より-   浅野 洋 2018/02/25投稿
白洲正子の「かくれ里」めぐり   坪内 啓二 2017/06/30投稿
歌唱における日本語発音上の一考察 後久 義昭 2017/03/14投稿
留学生事情と就労状況について 永井 哲郎 2016/06/02投稿
市会議員4年間の経験を経て 徳重 光彦 2016/06/01投稿
シリーズ「柳河風俗詩」について (その6)
組曲「柳河風俗詩」誕生記 作曲家 多田武彦
前田 豊治 2016/05/17投稿
シリーズ「柳河風俗詩」について (その5)
                 柳河へ行ってきました
前田 豊治 2016/05/15投稿
シリーズ「柳河風俗詩」について (その4)
男声合唱組曲「柳河風俗詩」と作曲者多田武彦
前田 豊治 2016/05/12投稿
シリーズ「柳河風俗詩」について (その3)
           男声合唱組曲「柳河風俗詩」 
前田 豊治 2016/05/10投稿
シリーズ「柳河風俗詩」について (その2)
           白秋と柳河風俗詩 
前田 豊治 2016/04/29投稿
シリーズ「柳河風俗詩」について (その1)
           北原白秋について 
前田 豊治 2016/04/27投稿
オルフェイ・ドレンガーからのメッセージ 増川 真澄 2014/10/22投稿
一日四食の奨め 正井 春吾 2014/06/01投稿
女房と捕り物帳(2) 加藤 雅夫 2014/05/31投稿
六甲男声に入団して 永井 哲郎 2014/05/30投稿
六甲男声合唱団初参加の所感 坪内 啓二 2014/05/29投稿
初めまして 岡澤 徹 2013/07/23投稿
六甲男声合唱団に入団して 大隅 国雄 2013/07/10投稿
ギャ ラリー<まっさん> 増川 真澄 2010/05/12投稿
ルチャーノ小林のオーディオ談義 小林 和生 2010/04/15投稿
医学博士大谷遷の健康指南 大谷 遷 2011/08/31投稿
「ムッ シュウ河原のワインにまつわるくお話」 河原 達 2010/12/25投稿
ヴァチカンで日本のミ サを歌う 増川 真澄 2010/07/12投稿
ホセ松岡の発声談義 松岡 茂雄 2011/08/03投稿
音 にも色がある? 増川 真澄 2011/10/12投稿

NEW六甲男声合唱団入団の経緯(2024/03/08 望月 薫博)

私の合唱人生の始まりは高校生の時でした。入学してまもない頃、話しながら食事をしていると、「コーラス部に入らない?」「入ってみようか。」で始まりました。 愛媛県の私の高校は神戸高校・兵庫高校・長田高校の様な存在で、2年生のNコンが終わると、受験勉強に集中するならわしとなっており、 私もその例に倣って受験勉強に集中することになりました。

神戸大学に入学し、受験勉強から解放された気分でキャンパスを歩いていると、「グリークラブの者だけど、喫茶店で話さない?」と声を掛けられ、 また合唱を始めるのもいいかなと思って入部しました。

大学生活はというと、昼休みに教養練習をして、その後は面子を集めてマージャン、全体練習は週1日、年に3回のパート合宿と全体合宿で、 私は専門に上がってからも、教養練習と面子を集めてマージャンという生活を続けていたため、下級生に顔が広くなり、特にベースの人と親密になりました。

大学を卒業して就職すると、合唱を続けようなどという気は全く起こらず、休日は会社の同僚と遊んで過ごしていました。 その後、結婚をし、いろいろあって離婚すると、休日は暇になり、合唱を続けている友達と面白そうなコンサートを見つけて 聴きに行くという生活をしていました。

転機が訪れたのは64歳の誕生日前に「きまり通り、65歳の誕生月で契約を打ち切る。」と言われた時です。 蓄えもあり、無理に働く必要もないから、また合唱を始めようと思いました。

合唱を続けている同期と時々会って話して、自分に合いそうな合唱団はないかなあと思っていると、 「六甲男声に3年後輩でベースの村田君と柏木君がいるから、そこなんかどうだろう(村田君は学生時代ベースでした)。」 と言われ六甲男声のコンサートは毎回聴きに行っていたこともあり、村田君にメールし、入団しました。

入団して思ったのは、神戸大学出身でもそうでなくても、合唱経験があってもなくても、老いも若きも、 男声合唱のハーモニーが好きな人間であれば受け入れる懐の深い合唱団だということです。 男声合唱のハーモニーを聴いていいなあと思う人は一人でも多く入って欲しいと思います。

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男声合唱との出会い(2022/12/21 板敷 勝)

2022年12月3日、六甲男声合唱団に入団し、初めての定期演奏会を無事終えることができました。

私の男声合唱との出会いは神戸大学グリークラブの新入生歓迎オリエンテーションです。

先輩に言われるまま、そのとき一緒に部室に行ったまだお互いに名前もしっかり分かっていない同期生と「ド」の音を一緒にして出してみました。先輩の「耳をよく澄ましてみて」の言葉によく耳を澄ますと不思議なことにオクターブ上の「ド」の音が聞こえます。そのときの感動は今もはっきり覚えています。そうして合唱の道を歩み出し、卒業後は先輩からの勧めもあり合唱活動が盛んな会社に入社、職場の混声合唱団で今もなお現役を継続しています。学生時代から会社員となっても、合唱は私の生活の大きな部分を占めており、私のアイデンティティを象徴する言葉と言えます。

私自身の合唱活動50周年に当たる年に男声合唱との再会を果たしました。六甲男声合唱団は図らずも私と同じ1954年生まれとのことで何か縁を感じます。これからも充実した合唱人生になることを願っています。

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皆さん、よろしくお願いします。 (2022/02/19 永井 哲郎)


令和4年2月       永井哲郎

この度、加輪上団長の退任に伴い、運営委員会で、新しく団長に任命されました。
今までは、運営委員長として、団長の下で運営面を担当させていただいてきましたが、 これからは団長として、運営面はもとより団の方針をまとめ、対外的にも六甲の顔としての重責を担うこととなります。誌上での総会になってしまいましたが、異論はなく、団長としてこれからやってまいりたいと思います。決意表明も兼ねて、これからのスケジュールや団員確保について報告します。

コロナ感染が収束するか、収束しなくてもWithコロナとしてインフルエンザ並みの 感染症となれば、従来通りの合唱活動を続けることができると考えます。
2月後半もしくは3月からの練習の再開ができたとして、2022年には以下の演奏会を予定しています。

  1. 5月1日アンコールの会~あましんアルカイックホールが閉鎖しない限り演奏会を開催する旨アンコール幹事会で申し合わせをしております。合同練習も含め3月には練習の再開が必要になります。
  2. 島崎さんの演奏会への賛助出演~5月28日(土)、および11月23日(水)
      5月28日は井上さん指揮のチャイコフスキー、11月23日は未定
  3. 12月3日の定期演奏会~予定では、井上さん指揮のチャイコフスキー歌曲、平林さん指揮の「魅惑のスクリーンミュージック」そして田中さん指揮の「民謡をたずねて」
    そして女声合唱団「はづき」の賛助出演は確定しております。

その後2023年には旧三商大を東京で開催予定、2024年は70周年記念定期演奏会開催の年 となります。

しかし、コロナ禍の中、退団者や休団者が増え、現状で、アンコールの会に出られる団員は 25,6名と見込まれます。
今後、このように演奏会を開催するためには、団員の確保が今まで以上に必要になります。 特に、テナー系の人材を確保するための方策を講じる必要があります。
グリーOBを中心に働きかけを続けたいと思っています。
皆さんにもご協力をお願いいたします。

そして、2024年の70周年を無事に迎えられるように努力いたします。
伝統ある六甲の歴史を次代にバトンタッチできるように役割を全うする決意です。

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吉永豊彦さん(B・17回生)の思い出 (2021/07/23 永井 哲郎(B・20回生))

吉永さんは2019年8月に、すい臓がんによりお亡くなりになりました。
当初、その年の5月に腸閉塞の手術の後、病院にお見舞いに伺いました。
まだ、痛みが残っているようだったので、見舞いも早い目に切り上げました。
その後、自宅に戻られたと伺って、一安心していたところ、8月に、突然の 訃報とすでに家族葬を済ませた旨、息子さんより連絡をいただきました。
大変驚きました。
六甲男声はこの年は、旧三商大の交歓演奏会が10月に開催されましたので、 11月2日に六甲男声の有志、17名が集まり、息子さんが店長をされていた木曽路上本町店でしのぶ会を行いました。

まずは出会いから書き始めます。
神戸大グリークラブに入部したのが昭和43年【1968年】、1年生にとって 当時の4年生は雲の上の存在、話しかけることすらできません。しかもパートも違っていました。その4年生の一人が吉永さんでした。心安く話ができるようになったのは、グリーの関西地区OB会に参加するようになってからだったと記憶しています。
吉永さんは富士銀行に就職され、支店長も経験された後、銀行を辞め、個人コンサルタント業をはじめられました。その時にも何回かお会いしたことがあります。
2014年、私が六甲男声合唱団に入団した同じころ、吉永さんも再入団されてきました。
学生時代の思いとは違って、大変フランクな付き合いが始まりました。
練習終了後の飲み会は若手中心でしたが、ずーと一緒にビールやら、ワインを酌み交わしていました。2016年年末の練習のあと、いつもの居酒屋に集合して、一杯始めていましたが、その中の一人が、海外に演奏旅行をしませんかとの提案をしました。
翌年の1月の運営委員会で、海外演奏計画が承認され、行き先を台湾に絞って具体的に動き出し始めました。
この台湾演奏旅行のチーフが吉永さんです。台湾の団体との連絡担当が小生で、会計担当が
佐々木さんで、この3名が中心になって、台湾演奏旅行を計画・実行しました。

台湾に知り合いのいる団員のうち、団内指揮者の田中安夫さんのルート、バリトンの伊原吉之助さんのルート、そして小生の神戸大学同窓会台北支部のルート、最終的には、田中さんの知り合いで台湾の指揮者の蘇慶俊先生が中心になってこの台湾演奏旅行が進み始めました。伊原さんのルートの静宜大学の曾先生にも協力いただきました。

2017年の11月、吉永さんはじめ3名で現地での打ち合わせを行ってきました。
その時、日本語が苦手な蘇先生に対し、吉永さんは英語を駆使して会話をされ、 たくましく思ったものです。大部分の通訳は、蘇先生が指揮をされているFormosa Singersの団員の東呉大学4年生の唐萬欣さんがやってくれ、また、本番では司会から、通訳から案内まで何でもやってくれました。その唐さんは2019年4月に同志社大学に留学をして、 京都に住んでいましたので、六甲の練習にも来てもらいましたが、吉永さんは、ご自身も 団員のアイヴィコール(混声合唱団)の練習に参加するようにいわれ、何回か練習にも 参加したようです。

本番は2018年10月12日から15日までの3泊4日、 台風21号による関空の閉鎖や連絡橋の破損で台湾に飛行機が飛ぶかどうか直前までわかりませんでした。関空の機能回復で無事に台湾に行くことができました。
台北では、吉永さんが中心になって、団員や家族が「青梅子」での懇親会を開催しました。 また、演奏会の終了後は、宿泊先のホテルの一室に15名が集合、普段話さない団員との交流が進みました。
13日は新竹市の教会での新築愛楽合唱団とのジョイント、14日は新北市芸文センターでFormosa Singersと喜悦女声合唱団とのジョイント演奏会を成功裏に終わることができました。

もう一つの思い出は、2018年1月の大阪倶楽部での演奏会です。この演奏会は 吉永さんが、運営委員会に諮って実現したのですが、大阪倶楽部では、男声合唱の演奏を 聞くのが初めての方がたくさんおられました。日本の名曲集とヨハンシュトラウスの「美しき青きドナウ」を演奏しました。

2018年の定期演奏会では、「みんなで歌いましょう」を計画して、指揮をして 会場を大いに盛り上げていただきました。これからも続けていきたいものです。

また、我々若手を、練習の始まる前に事務所に集め、発声指導やら曲の練習に時間を 割いていただきました。この中から、数人は一人立ちするまでに成長しています。

吉永さんいろいろとお世話になりました。ありがとうございました。
安らかにお眠りください。合掌。

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六甲男声合唱団に入団して (2020/05/02 佐藤 敏弘)

 入団のきっかけは、運営委員長の永井哲郎さんです。
 私は永井さんの住友生命で3年後輩になります。昭和50年入社時研修でお世話になりました。また、平成26年3月に住友生命を退職し、平成26年4月から大阪府食品流通厚生年金基金の常務理事に就任しました。
 その時に永井さんから定年後住友生命以外に努めているOBのランチ会にお誘いいただいて、毎月ランチ会で永井さんと住友クラブでお会いしていました。

 平成30年、そのランチ会でアンコールの会コンサートのチケットをいただきました。自宅が門戸厄神駅の近くで、自転車で兵庫県芸術文化センターまで10分でしたので聞かせて頂きました。
 コーラスの経験がなく、30歳すぎに岸和田の営業所長時代に民謡の会があって貝殻節、河内音頭等を3年間歌っていただけでした。アンコールの会を聞いて、すごいなと思いました。こういうのは経験者でないと無理だなと思っていました。

 平成30年8月ごろランチ会に集まる人数が5.6人になり、会を解散することになりました。また、再就職先の厚生年金基金も年末で清算が終わり結了の予定でした。
 永井さんから今後何かやることあるのといわれ、特にありませんというと、一度コーラスの練習に見学に来てと言われ、9月の練習にお伺いしました。
 前に自己紹介させて頂きましたところ、住友生命の先輩であります徳重さんからこんなに長い時間自己紹介したのは初めてや、これで入団決りと言われました。
 民謡か詩吟でもと思っていたのですがコーラスの経験がなくてもいいですと言われ、家内の後押しもあり入団させていただきました。

 厚かましく11月の定期演奏会にも出させていただきました。翌年5月のアンコールの会、10月の旧三商大の会等に出させていただきました。いずれも難しい読み方、音とりに苦戦しましたが歌っている本人が感動しました。

 私の出身は大分県です、大分舞鶴高校、九州大学、住友生命と歩んでまいりましたが、祖父が戦前、神戸の川﨑重工に勤めていたこともあり母は神戸生まれで、終戦後大分に帰りました。また息子は神戸大学工学部、その嫁は神戸大学経済学部と縁があります。
 素晴らしい諸先輩の中に素人が入りご迷惑おかけしていますが、私の老後のライフワークはこれだと思っております。なにとぞご指導よろしくお願い申し上げます。
 コロナ禍で練習、コンサートが出来ない状況にありますが、早く収束して歌うことが出来ることを願っております。

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六甲男声合唱団に入団して (2019/10/10 白川 秀司)

 2018年3月、67歳で入団しました。入団のきっかけは尼崎市立若草中学校(現在は少子化合併で廃校)のバスケットボール部の1年先輩であり飲み仲間でもあるバリトン佐々木道治氏からの勧誘でした。佐々木氏は六甲男声合唱団と神戸男声合唱団でもご活躍しており、ある日一緒に一杯飲んでいるときに私の「歌好き」を突いてのお誘いでした。これまで合唱経験の無い我が身としてはできるかどうかの不安があったので1~2日考えさせて貰い、結果として「やってみたい」との思いが勝ち入団させて戴くことになりました。

 私は今でも五木ひろしや三山ひろし等演歌系の曲が好きで若い頃から二次会は必ずと言っていいほど率先して歌好き仲間を誘いカラオケに通っていました。2014年9月(63歳の時)福井でご縁があり単身赴任でインテリア関連の仕事をしている時に念願のNHKのど自慢に出場することが出来ました。当日は私の家内や娘も大阪寝屋川から応援幕を持って駆け付けてくれ、ゲストである前川清の「中の島ブルース」をご本人の前で熱唱しましたが鐘2つでした。このときに私のたくさんの友人知人、そして佐々木氏にも出場が決まった前日にテレビを見て戴くよう連絡した事もお誘いの背景にあったかと思っております。

 さて入団して約40名のメンバーの皆様と初のご対面をさせて戴いたとき正直申し上げて平均年齢76歳のお顔ぶれをみて少し驚きました。しかし実際に演奏をご一緒させて戴くと多くの方々のお声の素晴らしさに感服しました。最近色々演奏を聴きに来てくれた方々の評判を聞くと六甲男声合唱団の評価はかなり高いと聞きます。これはかなり勉強・練習しないと追いつけないな、せめて皆さんの足を引っ張らないようにしないと申し訳ないなと言う思いにさせられており、それが却って励みにもなっております。六甲男声合唱団は元々神戸大学男声合唱部OBで1954年に結成されましたが近年では門戸を開いて神戸大学OB以外の方もたくさん入団されておりますので私も関学出身(グリークラブではありません)ですが、快く迎えて戴きました。今後とも歌好きの方々が入団されることを期待しております。

 カラオケには自分が好きなように歌える良さがあります。演歌好きの身としてはこぶしを自在に操る歌い方で今後も楽しみたいと思っています。一方男声合唱は
① 指揮・監督者の指示と楽譜に基づき、4つの各パートがその役割を忠実にこなす必要があります。
② 発声へのこだわり、つまり腹式呼吸を基本に腰を芯にして声帯を操り頭の後ろから声を遠くへ響かせることが望まれます(私は未だに不十分ですが)。
合唱の素晴らしさは、各パートが指揮者の指示通りに響きあったときは聴衆は勿論のこと演奏している我々自らにも感動が広がることです。ラグビーの「オールフォーワン」「ワンフォーオール」と同様の熱さを感じます。

 私の人生に悔いはありませんが、もし若い頃にタイムスリップ出来るなら、その頃に合唱の良さを知っていたなら関学グリークラブに入団していただろう、グリークラブに入団していたらその後の人生も大きく変わっていただろうなと思うこともあります(私の入学時は、安保闘争で学生運動が盛んな時期で9月まで授業が開かれなかった時期で入学1年目は親父の経営する鉄工所でアルバイトに精を出していました。3~4回生時は学業に精を出し卒論は優秀の評価を頂戴し研究室に並べられております)。

 初心者である私共に指揮・監督者や団長、運営委員長はじめ運営委員各位の方々は暖かくお声掛けをしてくれます。特に新人の我々にとっては全てが新しい曲であり、理解が早く進むように各曲の音源CDや楽譜コピーを事前に準備して頂くのもありがたく感謝しております。毎週火曜日練習終了後馴染みの居酒屋さんでのお疲れさん会も心癒されます。

 特にこの8月に急逝されましたバリトン・パートマネージャをされておられました吉永豊彦様には大変お世話になりました。我々新人を数名毎週火曜日練習前1時間~30分ご自身の事務所で課題曲や発声の個別指導をして下さいました。改めて御礼を申し上げご冥福をお祈り申し上げます。

 以上たくさんの方々への感謝の念を忘れず、今後も合唱に取り組んで参る所存です。よろしくお願い申し上げます。

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2019/ANCOR 合同演奏 ≪大中恩 作品集≫ に寄せて (2019/01/12 田中 安夫)

 人は、出会いと別れとをくりかえしながら年齢を重ねてゆきます。 その対象は肉親はもとより友人、恋人、また仕事上の・・・と多岐にわたりますが、 その度重なる出会いと別離を超えて、また新たに旅を続けます。

 きょう、取り上げる5曲は、歌曲として作曲され、後に合唱曲として編曲されたものを含む小品ばかりですが、 このように並べてみますと、あたかも一編の組曲であるかのように思われます。 そして同時に、さながら男の、分けても文字通り熟年を往く私たち<ANCOR>のメンバーの人生そのものを歌っているようにも思われます。

 大中恩は1924年東京生まれ。ご父君は「椰子の実」で有名な大中寅二。 「サッちゃん」そして、きょう最後に歌う「草原の別れ」の作詞者で作家の阪田寛夫は従弟にあたります。 戦後、中田喜直ら5人の作曲家と<ろばの会>を結成。 こどもたちのための音楽創作をライフワークとし、時代を超えてこどもから大人までが愛唱する名曲を多数創作。 これら童謡のほかに歌曲、合唱曲にも名曲が数多く残されていて 「煉瓦色の街/混声」「愛の風船/女声」「走れわが心/男声」「島よ/混声」(いずれも組曲)など芸術祭受賞作品多数、 まさに現代を代表する作曲家のひとりだったのですが2018.12.3、惜しまれつつ亡くなられ、今回は残念ながら追悼演奏になってしまいました。

 冒頭の《ふるみち》は、兵庫県竜野の生んだ詩人、三木露風の第二詩集〝廃園〟(明治42年刊行) に収められた格調高い詩に作曲されたものです。 月光の下に照らし出される轍の痕に自らの来し方を想わせるこの古径こそは、さながらわが胸のようだと歌います。 抑制の効いた男声合唱ならではのユニゾンと穏やかにして揺るぎないハーモニーが要求される作品です。 粉雪ふる夕べ、はろばろと並木の路を、君を乗せた《幌馬車》が遠ざかるのを見送る絵のような情景。 しかし、それは、哀れ、恋の幻に過ぎなかったのか・・・。 「ふるみち」と同様、3部形式で書かれたこの曲にも、自らの胸の内に問いかけるような熱いユニゾンと拡がりを感じさせるハーモニーが巧みに配置され、 ひととき激しい動きを見せる中間部を際立たせています。

 驚くべきは、これら抒情あふれる佳品が、戦時下の昭和19年ごろ、上野音楽学校(現:東京芸大)在学中に作曲されたということです。 当時、幼・少年時代を過ごした多数のわが団員には、70余年前の悲惨な暮らしを思うにつけ、 作曲者の<歌>への一途な思いに感嘆の念を禁じ得ません。

 次に、恋を知り初めたふたりが、「こんな夜には、手に手をとって、どこまでも、いつまでも歩こう・・・」と歌う《こんな夜には》の中で、 「ふたりの夢は広がり、ふたりの愛は輝く・・・」と若い日を謳歌したふたりにも別離の日は訪れ、 「君には君の明日がある、さよならよりもさりげなく、またきっぱりと《じゃあね》と手をふって別れよう」と歌います。 現代詩壇を代表する谷川俊太郎の、語りを想わせるこの詩につけられたメロディは洒落た和声と相まって、大中恩独特の世界へ歌う者を誘います。 そして、やさしい風がそっと別れを告げる今、ふるさとに、わが友に「さらば、健やかにあれ!」と歌う《草原の別れ》こそは、 単なる別れの歌としてではなく、新たな旅立ちを前にした若者たちへの何よりの<エール>として歌い上げたいと願っています。  ( 指揮/♪,Tanaka 記 )  

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六甲男声合唱団に入団して (2018/11/04 奥村 隆)

前置き

 六甲男声合唱団に入団させて頂き、1年10ケ月が経過しました。 この団に誘ってくれた永井さんから、実は昨年7月から入団経緯の文を出稿との 依頼あるも、ズボラとグズラ癖が事態をここに至らしめました。紹介者の永井さん そして後続入団された、西本さん、白川さん、佐藤さん、どうかお赦しください。

1.入団経緯:

 卒後40年のホームカミング・デイの企画で神戸大グリークラブの方と名刺交換し、 その後、毎年定期演奏会に招待状を頂戴し、娘と楽しませて貰っておりました。

 卒後45年のホームカミング・デイの企画は六甲男声合唱団有志の演奏会で確か、 永井さんから12月3日の定期演奏会のチケットを貰い、松方ホールへと駆けつけました。噂では平均年齢75歳、でも聞かせて貰うと、年齢を感じさせぬ実力ぶりと その企画力に完全に脱帽、感激いたしました。その際のアンケートが機縁となり、翌年、永井さんから入団のお誘いがあり喜んでOKした次第です。

 実は前年1月に「丸紅混声合唱団(通称:コール・フェリーチェ)」に入団。 これも大阪凌霜倶楽部主催のX'masパーティでソプラノの声に魅了されたのが縁です。 そもそも、小生は無趣味。無芸大飲、杯の上下運動だけで人生終えるのは虚しいと感じいたことも一因でも、あります。 楽譜も読めない身ながら実業団の伊藤忠ボート部のコックス上がりゆえ、 大声で喚くのだけは可能とチャレンジした次第。毒食わば皿までと、またまた暴挙ながらの入団となった次第です。  

2.入団後のいろいろ

 入団して小生の余りの酷さを見かねて、吉永氏がボイス・トレーニングを買って出て下さり、 姿勢の矯正、舌下を下げよとスプーンを持っての指導。今もその感触を 思い出します。さらに、もっと指導の上手な指揮者がおいでのコーラスがあると、 アイヴィ・コールをご紹介いただき厚かましくも、この団には2月に入団させて貰いました。

 六甲での初の大きな演奏会は5月のANCORの定期演奏会。4月26日に風邪発熱 治療中に酒席を断れず参加。これが祟って、初の舞台に立てるか否かの事態になり、 パートリーダーの田中さん、マネージャの永井さんを筆頭にバス各位に迷惑をお掛けしました。

 舞台のオーダーは素人小生の為の鉄壁の布陣で、そのご配慮に感謝しております。 その後は、田中さんのバストーンにほれ込み、田中さんの指導されるコーラスに無理やりの参画をお願いし、 田中さん、坪内さんのご配慮により、「チアリー ママス & パパス」と「阪神シニアカレッジうたごえの会」に入団させて貰っております。

 丸紅コール・フェリーチェは出身母体を同じくする3社(丸紅、伊藤忠、東洋紡)と の懇親演奏会を毎年実施しており、昨年11月の会で、「伊藤忠大阪合唱団」からバス・ パート・メンバー不足で困っていると、同期入社で、東京勤務決定後に小生の後継の コックス出身者から誘われ、昨年12月に入団を決めました。

3.初の海外演奏会を終えて

 先月の台湾での演奏旅行は感銘深いものでした。初日の新竹市カトリック教会での 演奏会、音響のいい教会が幸いし、また熱烈歓迎の聴衆に支えられ高揚した気分に浸 ることができました。新竹心築愛楽合唱団との交流、得がたいものと思ってます。

 翌日の新北市芸文センターでの喜悦女声合唱団、フォルモサ・シンガーズの演奏は 心に残るものです。世界に通用する素晴らしい合唱団だと大感激です。

 基礎的能力を欠く小生です。技量は、これからも研鑽して参らねばなりません。 でも素晴らしいご縁を得たことが入団しての最大の贈り物です。どうか、これからも ご指導のほどお願い申し上げます。


(P.S)この演奏旅行で2冊もの冊子を頂戴した伊原先生には大の感謝です。健康管理の大事 さも併せてご教示頂きました。爪の垢煎じて、せめて一歩なりとも近付けるように 努めたく思っております。

 以上

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J.Strauss,Jr "An der Schönen Blauen Donau"(1825~99) -「1996ミュンヘン発売のヨハン・シュトラウスCD全集第51巻の解説  (英国及びスエーデンのヨハンシュトラウス協会等の協力を得ている)」より-(2018/02/25 浅野洋)

1865年ウイン男声合唱団は夏の歌唱祭のためにJSJに18年ぶりに合唱曲を依頼したが、断られていた。 1866年7月襖はプロシアに敗戦。恒例の馬鹿騒ぎ祭りを変えて、 1867年冬にウイン男声合唱団の謝肉祭音楽会を開くこととして、JSJに男声合唱曲の作曲を依頼。 無伴奏男声4部の4曲のワルツが出来たが、 後にPf伴奏に編曲、団専属作詞家でJSJの幼馴染みの警察官ヨーゼフ・ヅァイル(1821~95)の作詞を後付けした。 更にオケ伴奏判に編曲された。 音楽会は2月15日、JSJ自身は先約の為ハプスブルク宮殿音楽会で彼のオケを指揮演奏していた。 故に本曲の初演は、1200人の大聴衆・5時間の演奏会で「JSJ作曲『合唱とオケのためのワルツ』」として、 130名の合唱団員がウィーン駐留プロシア軍楽隊伴奏で演奏され、大喝采とアンコールを受け繰り返し演奏された。 翌日の新聞批評は「歌詞が大いに受けた」「すばらしいメロディーが歌詞の楽しさに花を添えた」等々だった。

◎英訳歌詞の概要(イントロ部分には歌詞は付いていない)

<(1)(2)‥はクランツ判の番号:AB‥は六甲練習番号>

  1. A:ウイーンッ子は陽気だ、オーボー何故それ程陽気なの? 辺りを見ろ!何も見えぬ。
      謝肉祭だ、嘆き悲しんでも仕方がない、陽気に楽しもう。
  2. C:金は無いけど皆で踊ろう。 百姓は病気でも年貢を取られる。
      田舎飯屋の舞踏会で可愛い娘達と情熱的に踊ろう。 
  3. F:太った大家さんも空部屋が6軒もあって困ってるが、構わずに仮面舞踏会に行った。
      他の店子には値上げした。明日1人芸術家が入居するが彼は家賃は払わぬだろう。
      大家さんは「差し押さえに行っでも何も無いだろう」と悩みながら踊っている。
  4. H:芸術家は、運がむいて来ているように感じている。
      彼の額にミューズの神が甘い口付けし心が安らかになった。
      リズムに乗ってご婦人達のお好みに合うように踊らねばならぬ。
  5. J:政治家や批評家は思慮深く勇敢に動こうとしても一寸も動けない。
      彼らのワルツの踊り方は彼らの努力にも拘らず興をそぐだけだ。
      小煩い事を書くくせにリズムが合わない。
      ハハハ!一緒に踊り続けよう、時を逃したら幸運は戻らない、急いで楽しもう。
      光陰矢の如し、幸せのバラの盛りは短い。踊れ、踊ろう、踊ろう。Drum tanzt, ja tanzt,

以上の如く、元曲の歌詞は「ドナウ河」とは全く無関係。 カール・イシドル・べック(1817~79)のメランコリックな詩「Stille Lieder静かな歌」に基づく 『美しく青きドナウ河の辺りで』という題名・歌詞が、何時・誰によって付けられたのかは不明。


先日のNHKTVでも、朝日CC名曲講座で日下部先生がこの元曲の説明をされた時も、 「美青ドナウ」命名経緯は触れられず終い。

1999年六甲男声で配布された楽譜では「1932年クランツ判:作詞ルドルフ・イルクナー:ウィーンで1867年2月18日初演」 と記入されたものに、全く異なる字体の判で「作詞フランツ・フォン・ゲルネルト(序奏部分の歌詞無し)の歌詞表」が添付されていた。 この歌詞表の出典は? 1932クランツ判には「ゲルネルト」の名は無い。

一般には「三省堂クラシック音楽作品辞典井上和男編」「音楽之友社の辞典」等々「作詞:Kベック」となっているものが多いが、 「音友社・美青ドナウ・オケ曲総譜」では「Kベックの詩に基づいてFゲルドネルトが作詞」と解説。Rイルクナーの名は他には見当たらぬ。

何れにせよ、後にJSJがオケ曲に編曲し万国博(1867パリ万博?1873ウィーン万博?)で演奏して大好評を得て以来、 一般にはオケ曲で親しまれるようになった様だ。

因に、JSJの主な合唱曲は「美青ドナウ」の2年後、同合唱団依頼の「酒女歌」の2曲程度だが、 その後、宮廷音楽家を退いてから、オッフェンバックに刺激されて声楽曲を含んだオペレッタの作曲を開始(全16曲)、「蝙蝠」は1873で3曲目。

ウイーン国立オペラ男声合唱団(CD)「美青ドナウ」だけは作詞者名無記入だが編曲・歌詞は1932クランツ判と半分位は合致、 歌詞が後付けされた「皇帝円舞曲」「ラデッキ―行進曲」共に作詞何某と記入、 「南国のバラ」作詞Rイルクナー、ヨゼフシュトラウス「女心ポルカ」作詞Fvゲルネルトもあるが、解説・歌詞表もないので詳細・意味不明。

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白洲正子の「かくれ里」めぐり  (2017/06/30 坪内 啓二)

  白洲正子は、吉田茂元首相の秘書役を担ったあの白洲次郎の妻だが、むしろ能や古典に造詣が深く数多くの随筆を残した文化人として名高い。  中でも、読売文学賞を受賞した「かくれ里」は、発表されてから45年も経つのに、今でも多くの人々に愛読されている。
  阪神シニアカレッジの有志とともに「かくれ里」を訪ね、その魅力に接してきた体験の一部を探訪記としてご紹介したいと思う。
  
 1) かくれ里とは
  初めてかくれ里を知ったのは、確かNHKの紹介番組だったかと思う。 関西の意外な場所に素朴で、奥深い魅力に溢れた処があることを知り、訪ねてみた いと思ったのが始まりだった。 「かくれ里」という言葉にも心惹かれたが、それについては「かくれ里」の冒頭の文章をご紹介したい。
 「字引をひいてみると、世を避けて隠れ忍ぶ里、とあり、民俗学の方では、山に住む神人が、冬の祭りなどに里へ現れ、鎮魂の舞を舞った後、いずこともなく 去っていく山間の僻地をいう。秘境と呼ぶほど人里離れた山奥ではなく、ほんのちょっと街道筋からそれた所に、今でも『かくれ里』の名に相応しいような、 ひっそりした真空地帯があり、そういう所を歩くのが、私は好きなのである。」  とある。 我々若い頃は、日々の糧を稼ぐのに必死で、過去のことよりも今そして明日のことが優先事項であり、興味の主体であったように思う。グロー バル、インターネットが主題の時代において、国内よりも世界に、暗い秘密めいたものよりも明るい楽しい事象のほうに、目が向くのもやむをえなかったと いえる。   地方や田舎から若者達が都会に集中し、自然と離れて暮らすようになってきたことに よって、多くの日本の地方の伝統や文化が失われてきた。   そのような流れの中で、一方では スローライフの良さ、個性の尊重、田舎暮らしに憧れる人達も増えつつある。  長年勤めた職場 を定年退職した時多くの人が求めるものは、自分自身を見つめ直し、生甲斐を掴むことであろうか。   そんな時に、昔の日本の姿を残す(真空地帯の)かく れ里を訪ね静かに歩いてみるのも、きっと 良い経験になるはずである。


2) かくれ里の紹介


① 「葛城古道と古代の歴史を伝える社など」(2014/9/23)

   奈良県御所市の一帯は、古代葛城王朝が栄えた地域であり、葛城古道に沿って由緒ある神社等がひっそりと残っている。 現在は市営の小型バスが域内を巡 回していて、これを利用すればかなり楽に巡ることができる。
  私達は、9月下旬、高鴨神社(京都の上・下鴨神社の発祥)、高天彦神社(天孫降臨神話の舞台の伝説)、一言主神社(雄略天皇と一言主神との伝説)、九品寺 (千体地蔵で名高い)等を訪ねた。歴史と伝説に満ちた神社・仏閣、そして紺碧の空・緑の山や棚田、葛城古道沿いに咲き誇る炎のような曼珠沙華の花々が私達 の目に焼き付いて離れない。
 此処は確かに、豊かな自然と古代神話に満ち溢れた、日本の懐かしい古里だった。
[行き方] 近鉄御所駅から、コミュニテイバス乗車(9月のシーズンには特別巡回バスが運行される)


② 「丹生都比売神社と天野の里」(2015/4/19)

   奈良県かつらぎ町の高野山への町石道の丁度中ほどの山の中に、桃源郷のような長閑な天野の里がある。ここは女人禁制の高野山に登れないため、あるいは現 世から逃避するために、隠れ住んだ人達やその家族が住んだ伝説の里でもある。  西行の妻と娘の跡碑と西行庵、平家物語の滝口入道との悲恋を伝える横笛の 恋塚、俊寛僧都の弟子の有王丸の墓碑等が里人達に今も大切に守られ残されている。

  その里の奥深い場所には、世界文化遺産の一部に登録される丹生都比売神社(左は参道の輪橋)が歴史を重ね、天野の里の守り神として華麗に鎮座している。こ こは、神と仏を信仰する里人達の住まう、正に「かくれ里」であった。
[行き方] JR和歌山線妙寺駅から、神社行きのコミュニテイバスに乗車。 尚、4月の「花盛祭」の時は、橋本駅前・神社間の往復バスが運行される。


③ 「木地師の里、君ヶ畑」(2015/11/1)

   滋賀県東近江の鈴鹿山中に、木地師の里、君ヶ畑がある。在原業平の伊勢物語にも登場する惟喬親王は、藤原一族との皇位継承争いに敗れ、15歳で都を逃 れ、この地に隠棲し、里人達に轆轤の技術を教えたと伝わる。

  以後ここは木地師発祥の地とされ、大皇器地祖神社(右の写真)に祀られている。悲劇の親王を匿ったとの伝説は、今も里人達の誇らしい心の支えとなっている ようで、数十人の住民しかいない過疎の村なのに、何故か凛とした静けさが、其処彼処に漂うかくれ里であった。
現在、ただ一人残る木地師の小椋昭二氏(左の写真)の工房を見学させてもらい、更にご自宅で美味しい政所茶を御馳走になった。
[行き方] 近江鉄道八日市駅から、永源寺行バスに乗車。
  永源寺車庫にて君ヶ畑行コミュニテイタクシー(要予約/定員8名)に乗車。


④ 「滝の畑と金剛寺の日月山水図屏風」(2014/11/3)

   河内長野の山奥に、滝の畑はある。周囲を山に囲まれ、かっては北摂の能勢に対して南の秘境と呼ばれ、平家の落人伝説の語られる処だが、今ではダムが建 設され随分景観も変わっている。 しかし、ダムの上流に登って行くと光滝寺があり、近くに光滝(右写真)等の名所がある。
  帰りに、高野街道沿いに建つ金剛寺を拝観すると、そこにはいにしえの滝の畑の自然を描いたと思われる名画「日月山水図屏風」(次頁)が残されている。
 年に5/5と11/3の二日間のみ公開されるこの屏風は、雄大な自然と四季がのびやかに、大らかに描かれていて、見る者を惹きつけて止まない。かくれ里 の本の表紙絵として紹介しているほど、正子さんお気に入りの風景画だ。金剛寺には、南北朝時代、南朝最盛期の天皇の行在所があり、北朝の上皇達が囚われて いたといわれ、往時の歴史の一端を拝観できる。

                           日月山水・夏図                                     日月山水・冬図
[行き方] 光滝へは、南海高野線河内長野駅から滝の畑行バスが出ていて、キャンプ場を 目指すと分かり易い。金剛寺は、光明池駅前行のバスに乗車、天野山下車が便利。

 

⑤ 「石の寺・教林坊、紗々貴神社・奥石神社など」 (2014/5/17)
 JR安土駅前でレンタル自転車を借りて、周辺をサイクリングした。
5月の風が心地良かった。安土といえば、織田信長の安土城で有名だが、自転車で5分程の場所に、博物館と天守復元館がある。
しかし意外と家並みは少なく、田園風景が続く長閑な処である。
佐々木源氏の氏神で、佐々木姓発祥の地にある紗々貴神社では、なんじゃもんじゃの樹に雪のように白い花が見事に咲いていた。(右写真)
 そして繖(きぬがさ)山の麓の石寺という集落の奥に、ひっそりと教林坊は建っている。 かくれ里で石の寺として紹介されたものの、住職不在のため一時 は、荒寺となっていたが、若い新任の住職が独力で復興し、今では拝観客が数多く訪れているという。
 駅から離れた目立たない場所の寺坊であるため、さほ ど有名とは言えないが、寺への参道など、趣のある佇まいは、魅力的である。境内の小堀遠州作の庭には、古墳の石と思われる遺跡が残っている。

教林坊から南の新幹線の先に、奥石(おいそ)神社がある。万葉の昔から歌に詠 まれてきた老蘇(おいそ)の森の中にあり、繖山をご神体とした安産祈願所と なっている。

  道の両側に杉の大樹が林立し、境内は静寂に包まれた別世界であった。(左写真)
  「夜半ならば老蘇の森のほととぎす 今も鳴かまし忍び音のころ」   本居宣長
[行き方] 紗々貴神社へは、安土駅から自転車で10分ほど。
教林坊へは、20分、奥石神社へは、30分ほどだが、タクシーをチャーターするのが便利。


⑥ 「石の寺・石馬寺と石塔寺」(2016/9/18)

   正子さんは、近江の琵琶湖周辺に、石に関わる寺や神社が数多くあり、渡来人との関わりを指摘している。  JR能登川駅から近江バスで八日市に行く途 中に石馬寺がある。聖徳太子が霊地を求めて当地に来た時、乗っていた馬が石に変じたという伝説の寺で、繖山麓の石段の中腹に建っている。
多数の仏像や、書院の前の石庭が印象深い。 台風の影響で時折小雨が降っていたが、却って草木、苔、石段、お地蔵、石碑等がしっとりと濡れ、落ちついた風 情を醸しだしていた。(右参道)

  石馬寺からタクシーで数分の近くに五箇荘近江商人屋敷が数軒残っている。手入れの行き届いた庭付の豪邸に、往時の近江商人たちの実力が偲ばれる。 その 後、バスで八日市駅へいき、近江鉄道の桜川駅に向かう。  ここからタクシー5分の布引山の上に、端整な白鳳の塔(左写真)が立っている。この塔のため に石塔寺が建立されたといわれるほど、見事な石造の塔である。その周りを取り巻く、1万基ともいわれる石碑、石仏の群れは、過去数百年間に積み重ねられて きた人々の供養の歴史を物語っているようで、異界にあるかのような静謐な雰囲気を醸し出している。
[行き方] JR能登川駅から八日市駅行の近江鉄道バスを利用すると便利。
      桜川駅から石塔寺へは、タクシーを予約しておくと良い。


  ⑦ 「奥琵琶湖の寒村菅浦」(2017/4/9)
 ここは、今回で3回目の訪問だが、いつも静かな雰囲気に包まれた落着きを感じる場所である。
奈良時代、恵美押勝(藤原仲麻呂)が起こした反乱は、孝謙上皇と道鏡によって鎮圧された。淳仁天皇は、この反乱に加担したとされ、廃位され、当地に隠棲し 亡くなったと伝承される。 須賀神社は天皇の御陵ともいわれ、菅浦の村民は、御陵を守護するという意識から、自治意識が強固で、独特な文化を残してきた。
今でも、須賀神社へは、スリッパに履き替えて参拝する習わしである。

  村の東西には、四足門(右写真)が残り、菅浦全体は、重要文化的景観選定地に指定されている。


村の正面の琵琶湖には竹生島が見える。私達が訪問した時は、桜が咲き始め、湖 面に映えて見事だった。 
万葉歌碑に、 「高島の阿渡の湊を漕ぎ過ぎて 塩津 菅浦今か漕ぐらん」とある。
 いつもお世話になる料亭「佐吉」でお弁当の昼食を取った。
一寸高価だが、鱒ずしを肴にして飲んだ地酒はとても美味しかった。
  [行き方] JR湖西線永原駅下車。料亭「佐吉」の迎車で、「菅浦」へ。
帰りは、近江バスに乗車(午後2:11発)。


⑧ 「和束の茶畑と金胎寺」(2017/6/3)

  京都府宇治田原の鷲峰山(しゅうぶさん)は、北の大峰とよばれ、修験の  行場として栄えたが今では金胎寺(こんたいじ)の多宝塔と金堂等だけが残る。
その昔、後醍醐天皇が吉野に落ち延びる途中、立寄った所と言われる。

今回は、JR加茂駅から奈良交通バスで、鷲峰山の麓「原山」から登った。
この辺りは、茶源郷として有名な和束で、一面茶畑に覆われていて見事な景色だっ た。丁度茶摘みが始まっていた。 茶畑の間を抜け、林道を登り、約1時間で到着。  誰もいない境内に、ひっそりと多宝塔が建っていた。天武天皇の白鳳4 年(675年)の草創で、塔は鎌倉期の建築と伝わる。
 帰りに、和束で自転車を借り、周辺をサイクリング。 テレビに紹介された「かくれんぼ」(予約制)で大豆入りパンを購入した。
 [行き方] JR大和路線加茂駅下車。奈良交通バス「原山」下車。徒歩1時間の行程。登りは ややきついが東海自然歩道のルート上にある。


3)むすび


①「かくれ里」を読んでいるうち、白洲正子に興味を持ち、その著作の何冊かを読ませてもらった。そこには共通して、日本の伝統・古典への深い憧憬や慈しみ が溢れていたように思う。 特に、旅をする時には、目的(地)を選ぶこととともに、其処に行き着くまでの道中、いわゆる橋掛かりが面白いと言っておられた が、本当にその通りで、目的を達成するまでの過程が楽しい。 それは人生そのものとも通じているのではないだろうか。


② 天野の里の丹生都比売神社、木地師の里の大皇器地祖神社や、甲賀の油日神社等、人口の少ない僻地ともいえるような場所にも拘わらず、不釣合いなほど荘 重・華麗なお社等が建てられていて、しかも今もそれぞれ伝統的な祭が盛大に執り行われている。
 歴史と伝統を絶やさず、今に伝える里(村)人たちの信仰心の在り様に畏敬の念を抱いた。
  そのようなかくれ里に住んでおられる里人の幾人かと知り合えたことは、とても有難く、自分自身の財産として大切にしたいと思う。


③ ここにご紹介した「かくれ里」は、ごく一部であり、未だ沢山のかくれ里がある・・・・・  鯖街道の「興聖寺」や「葛川息障明王院」、吉野の川上、田原の古道の「猿丸神社」、越前勝山の「平泉寺」、岐阜長滝の「白山神社」等々。


そして更に「かくれ里」に紹介されて いない、未知の「かくれ里」もきっと数多く 残されているに違いない。


そんな場所を発見し、探訪することができれば、望外の幸せであり、これからも大いに 楽しみである。


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歌唱における日本語発音上の一考察  (2017/03/14 後久 義昭)


    日本語は当たり前のことですが我々は日本語ネイティブなので、邦人作品を歌う時、日本語の発音には外国語ほど神経を使いません。しかし、話す言葉の発音 と、歌う時(アナウンサーなどプロの喋り方も)の発音は違うと認識しなければなりません。
   小生が在籍しているテレマン協会室内合唱団では日本語の歌は取り上げませんし、また小生自身もドイツリート歌手と称しているので、日本歌曲は日本人であり ながら皮肉にも不得意です。しかし、日本歌曲の指導で第一人者と言われている塚田佳男先生の講義を受け、その弟子のリサイタルを聴いて納得し、ある程度の 基本的知識は持っているつもりです。(上手く歌えるかは別にして)
   そのルールをご披露させていただいて参考にしていただけたらと思い筆をとりました。


(1)日本語をドイツ語の子音/母音のように歌う
   まず第一の基本は、ヨーロッパの言語、特にドイツ語における子音と母音の関係を日本語にも適用すると云うことです。もっと具体的に言うと子音と母音をそれ ぞれ別々に独立させて発音すると云うことです。もともと話し言葉としての日本語は、子音は母音の前に付いていて同時に発音するので、子音だけを発音する習 慣が無い(「ん」を除いて)ので我々には大変難しいことです。
   たとえば「た」をローマ字で書くと「TA」となり子音「T」と母音「A」に分離して表示されますが、発音する際にも分けて発声します。
   そして、我々のマエストロも常々言われているように、子音は拍の前で発音し、拍の頭で母音を発音しなければなりません。子音を明瞭に発音したとき母音に影 響を与えて声が大きくなってしまうことは我々日本人が犯しやすい良くない現象です。


(2)どの子音にも長さがある
   そこで次に子音の発音ですが、すべての子音には長さが必要です。[f]などの摩擦音や[r]などの巻き舌の子音で長さがあることは誰にでも理解できます が、[t]、[b]、[p]、[k]などの所謂破裂音では拍の頭で急激に息を送って母音と一緒に発音し勝ちですが、これが誤りのもとです。
   破裂音とは、調音器官を閉鎖して呼気をせき止めたのち、急に開放して発する音で、日本語では、無声音の[p][t][k]、有声音の[b][d][g]が あり、閉鎖音とも言います。なので、呼気を止める時間が必要で、これが子音の長さになり、最も重要なポイントになります。
   もう少し具体的に言えば、子音を発音する口の形、舌の位置を決めて、調音器官を閉鎖して呼気をせき止めた無音時間が拍の前で存在し、拍の終わる直前で息を 解放して音を発します。
   語尾の子音(日本語では「ん」以外ありませんが)で次に休符が来る場合は、通常は次の拍の頭で子音を発しますが、具体的にどの位置で発すかは、長母音、短 母音で変わってくるほか、指揮者の判断で指示に従います。(これはドイツ語音楽の場合)
   ドイツ語音楽の場合の更なる注意点を述べます。何十年も前の昔、小林道夫先生が語尾で「t」などの破裂子音を出す時、小さな楊枝を唇に立てて挟み、その楊 枝を瞬間的に激しく前に飛ばすと習いましたが、これはテレマンでは現在、誤った方法と認識しています。
   正しくは、「t」を発する口の形で舌先を上の歯の裏に強く押し当て、無音の時間を作り、発音するタイミングで舌を後ろに引いて瞬間的に発音します。これは テレマン(延原)がヨーロッパから招聘した共演者から聞き取った手法で、その積りで聞くとヨーロッパ人は皆そうしています。難しいですが慣れるしかありま せん。
しかし、これら子音の扱いは、日本語の場合(語尾の子音は「ん」以外存在しない)はドイツ語より少し柔らかめにしないと不自然になってしまいます。


(3)日本語の「ラ」行の発音
   次に「レストラン(日本語)」に関係する「ラ行」の発音について述べますが、これは私見です。
   ドイツ語の[L」は有声子音で、舌の先を上の歯の付け根に押し当てて息を送り(その間「ウー」のように鳴る)、舌の先を引いた(歯の付け根から離した)瞬 間に[L]が鳴る仕組みなので、日本語の「ラ行」とは明らかに違います。ドイツ語(巻き舌、喉彦の振動)や英語(前に小さく「U」と発音する)の[R]と も勿論違います。
   「燃え上がれ やさしい海よ」の冒頭の「レ」の発音はどのように発音すれば良いか悩ましい所です。六甲男声の現状では揃わず曖昧で大変聞こえにくいと思い ます。
   私は個人的には、舌先を前歯の付け根に押し当てて息をせき止め、破裂音のように、せき止めた息を放って「レ」と少し鋭く発音するのが良いのではないかと 思っています。そのとき母音の「え」は要りません。
   全くの私見ですが、井上監督、田中先生、いかがでしょうか?


(4)「ん」&ハミングの発音
   次に「ん」(ハミングも)ですが、基本的に開口では舌の先は上の歯ぐきに(ドイツ語n)、閉口では舌の先は下の歯ぐきに(ドイツ語m)付けます。勿論、例 外もあり、ハミングで開口にするか閉口にするかも含め、指揮者の意向に従います。また、また、口腔に卵を縦に入れているくらい大きく空間を作り、舌が緩ん でいることと、何より声門が空いて息が流れていることが肝要です。
   日本語の場合、「ん」の後に来る子音の種類によって開口か閉口かが決まります。たとえば「蜻蛉=トンボ」では閉口ですが、「短歌=タンカ」は開口です。し かし、これは実際に発音してみればどちらが正しいか容易に判断できます。


(5)レガート唱法の重要性
   また余談ですが、「燃え上がれ やさしい海よ」のベース、バリトンのパートソロは、どうにも幼稚に聴こえてしまいます。(自分を顧みず、ごめんなさい。)
   ひとつには日本語の母音の響きが繋がらず、バラバラにあちこちに向いてしまっていることかと思います。要するにレガートに歌えていないということです。特 にベースの「ひえるあさ」のフレーズは母音の変化とともに音程も跳躍するので難しいと思います。特に注意すべきは最後の低音、「朝」の「さ」が響きが落ち て前の言葉から分離してしまわないようにすることです。これはとても気になります。
   この対応は、いつも井上監督が言われている「あ」の形をすべての母音で保つような練習方と所謂が「支え」が必要かと思います。ドイツ語では、ひとつの単語 の中でアクセントがあるような重要な音節の母音の形をその単語全体で保つやり方です。例えばFreudeなら[ɔ]の形で[fr ɔ Y d ə]と全体を発音します。はっきり[フロイデ]と母音の形をはっきり変えて発音しないのです。
   もうひとつ、テレマンでも良く使う練習法ですが、最初の「レ」を同一音でフレーズの長さ分伸ばして歌い、その“感覚”で歌詞をつけて音程通りに歌うという ことをやっています。こうすることでフレーズ全体がレガートに響きが繋がりやすくなります。この方法は私が歌曲を練習する際にも多用しています。
   曲のもっとも大切な部分なので上手に歌っていただきたいです。


(6)鼻から息を漏らさないで歌う
 ついでにもうひとつ余談を付け加えます。息を長くするには鼻から息が漏れないことです。小林先輩のような超人は別にして、普通結構鼻から息が漏れます。 鼻をつまんで息が漏れないように試みてください。また響きが後ろでなく、前に来すぎていると鼻をつまんだとき声が出ません。そのチェックにもなります。
 
  長くなりましたので今日のところはこれまでとし、また気がついた点をお話しできたらと思います。次回はドイツ語の語尾、ビブラートなどについてお話出来た らと考えています。
   諸先輩を前に釈迦に説法、失礼の段、なにとぞお許しください。


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留学生事情と就労状況について  (2016/06/02 永井 哲郎)


    2015年1月から、三宮の日本経済大学神戸三宮キャンパスで、留学生の就職支 援の仕事をしています。その仕事を通じて驚いたことや感じたことを紹介した いと思います。
  さて、この大学は、経済学部のみの単科大学で、学生数は約500名、ほとんどが中国からの留学生です。
  ところが、2016年の新入生から様子が大きく変わりました。新入生130名のうちベトナムから70名、中国は40名、ネパールからは10名、後は韓 国、台湾、香港および日本です。何と半数以上はベトナムからの留学生が占め、一気に中国からの留学生の数を上回りました。
  一体何が起こったのか、何が起こっているのか 。
   このすこしまえに、ベトナムからの語学留学生が非常に増えているとの話を聞いてはいました。今年の新入生により、その話が証明されたことになりました。も う少し詳しく事情を調べてみますと、日本語学校に在学する留学生は、2012年かの2年間で2万人増加、4.5万人の学生数。出身国では中国とベトナムが ほぼ同じ割合、次いでネパールと韓国、台湾という順です。この日本語学校のベトナムからの留学生の絶対  数の増加は、入学する大学の人数に影響することは容 易に想像がつきます。
   この絶対数の増加は、おそらくはベトナムやネパールでは、日本留学仲介業や日本留学エージェント業、つまりブローカーの存在が大きく影響して、これほどの 人数になってきているのではと思われます。
   実際、大学生・大学院生の増加率第1位はベトナムで、4年前に比べて3倍の1.1万人、ネパールの増加率は第2位で、2.5倍の4900人というデータに なっています。
  入学してきた非漢字圏の彼等はひらがな・カタカナはもとより漢字の習得には、中国や韓国人よりも時間がかかる筈です。大学でも日本語の勉強は必須科目とし て授業を行っています。習字の時間もあり、漢字の習得にも力を入れています。
   一方彼らの日本での就職希望は約30%です。2013年の就労許可件数は11647件で過去最高の件数ではありますが、外国からの留学生の70%(約1万 人)は帰国してしまっています。日本で就職をするには留学ビザから就労ビザに切り替える必要がありますが、この就労ビザの切り替えには大きな制約がありま す。
   「技術・人文知識・国際業務」に関する仕事しかつくことができませんし、大学で学んだ知識を生かすことのできる業務かどうか、採用する会社からの雇用理由 書の提出を求められることも多々あります。
  世界が大きくグローバル化が進行している中で、留学生の日本での就職には大きくそして高い障壁が横たわっています。国内企業人材のグローバル化を阻害し ているのではないかと思われます。
   30%しか日本での就職を希望していないのはアンケートからもうかがえます。
日本に住むことに魅力を感じている留学生は83%もいるのに、日本で働くことに魅力を感じていない留学生が51%もいます。なぜ魅力を感じていないので しょうか。
    経産省の「内なる国際化研究会」での調査によって、下記のような点が挙げられています。
1、 就職にあたってキャリアパスの明示、昇格・昇給のスピードや役割、業務内容の明確化。
     日本型雇用からの変革が求められている
2、 大企業では、年功制の撤廃や業務範囲の明確化が行われつつあるが、中堅中小企業では
     その進み方が遅れている
3、 新卒一括採用の仕組みや、中堅中小企業の情報の不足
4、 在留資格や永住権取得の優遇や手続きの簡素化が求められている
5、 外国人材が定着するためには、子供の教育環境の改善が必要
6、 外国人が安心して暮らせるような、医療行政サービス、生活サービスの多言語対応が必要
   こんなことを感じながら、日本経済大学で、留学生の就職相談に応じていますが、今は、来年卒業生の就活の真っ最中です。3月から始まった、合同説明会や就 職博に参加していますが、留学生の採用の可否が掲載されていない会社案内が多くあり、ここでもグローバル化の動きの遅れを感じているところです。


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市会議員4年間の経験を経て  (2016/06/01 徳重 光彦)


1.地方選挙について
  平成23年4月統一地方選挙には長いサラリーマン生活(43年間)から解放されたのと多くの友人たちからの支援もあり、又“みんなの党”という当時注目の 政党支持にも恵まれて予想外に芦屋市会議員選挙に第2位(2228票獲得)で当選することが出来た。その後4年間議員生活を経て平成27年4月には無所属 で再度出馬するも787票に停まり想定内の落選でまさに基盤のない(支持政党のない)悲哀を心底味わった。その間、神大グリークラブの多くの現役メンバー には多大なご支援とご苦労をおかけした。特に2月~4月上旬の厳寒のなか、芦屋市内のJR,阪神、阪急の駅立ちとチラシ配り、膨大な名簿の作成など誠心誠 意ご協力して頂いたことに感謝している。


2.議員の日常生活とは
  議員生活では平成23年4月以来4年間の本会議においては“市民が主役、市民が輝く、芦屋市政をよくするために”をモットーに合計12回議場に立って多岐 にわたる一般質問と行政宛の要望をしてきた、質問時間は1回40分ではあったが事前調査と質問書の提出には何倍もの時間と労力を要した。また、そのやり取 りの詳細内容についてはその都度市議会活動報告書を作成して印刷業者に依頼そして戸別訪問でのポストインや駅前朝立ちで手渡し配布という神経を使う緻密な 広報活動を展開してきた。(発行部数は毎回2万枚以上、通算16回に亘った)一方、日常の活動については極めて個人生活の自由度が少ないものである。昼夜 を問わず近隣住民からの市の行政に対する要望や苦情をお聞きしてはその問題の解決に向け一定の方向を示す必要があるため土曜日、日曜日ものんびりできな い。一方で議会会議中の発言内容についてはもちろんのこともう一歩外にでれば市民をはじめオンブズマンから一挙手一行動が常時監視されている。
使命感に基づいて行動するか、流れに身を任せ日々を“その場の対処”で過ごすか! 徳重の4年間は前者であったが今となれば道半ばと言わざるを得ない。


3.活動実績の主なもの
   “芦屋市政に新しい息吹を!”の旗印のもと、徳重が市政課題の解決に尽力してきた主なもの少しだけ此
     処に取り上げさせていただいた。


① JR打出村踏切の渋滞解消のために稲荷山線の早期開通に向けて
     (JR西日本本社を訪問して何度も交渉するも全く前進せず未実現のまま現在に至る)
② 上宮川橋の段差解消と歩道部分拡幅工事 
     (平成27年6月工事完了、ようやくベビーカーや車椅子が通れるようになった)
③ 日本一高い市職員の給与の水準適正化(一定数削減するも基本的には前進していない)
④ 芦屋市議会の議員定数適正化   (以前22名⇒現在21名に、1名削減実現)
⑤ 市内3中学校の給食設備実現 (平成27年から順次新規設備工事で実現しつつある)


要は現在の市政は行政側・議会側の優遇のためにあり、血税を収める市民へのサービスは後回しというのが実態であることは極めて残念である。


4. 六甲男声合唱団に加入して
  神戸大学グリークラブ先輩で芦屋市内の赤司さん、芦屋市内の加輪上団長のお勧めと相前後して同じく約50年前グリークラブで同じ時期の吉永先輩、同期の前 田君、特に後輩の永井君からの強い引きもあり入団させていただいてから早くも1年になろうとしている。毎年5月に開かれる(来年は西宮の県立文化芸術ホー ル)5大学OBのアンコールの会は今年も大阪国際交流センターホールにて盛大理に終えることが出来た。今後の定期演奏会は“水のいのち”“珠玉の名曲” “マーラーのさすらう若人の歌”“智恵子抄巻末のうた六首”の予定と聞いている。毎週火曜日の夜の練習には多くの私より高齢の方が頑張ってご参加されてい るのを見るとさぼりにくいのが本心である。その他に私は、健康維持のため高校時代経験した硬式テニスを50年余続けている。週に3~4回芦屋シーサイドテ ニスクラブ、日曜日には大阪舞洲シーサイドで旧くからのテニス仲間達と命懸けてコートの上で戦っている。いずれも老化防止と体調管理には足腰を鍛えるのが ベストであると心得て続けている。また、高校時代の仲間たちと設立した芦屋六甲遊山会には今や15名のメンバーとなった。芦屋の裏山からは大阪湾が一望で きるため東お多福山、高座の滝、ロックガーデン、六甲縦走ルート6回ハイキング、摩耶山登山チームラン等すでに開催は30回近くになろうとしている。ま た、生涯学習目的の芦屋川カレッジでは毎週水曜日(関西文化コース)の勉強会に参加している。これは芦屋市の教育委員会主催で今年は33回目となるが今回 ようやく入学することが出来た。(毎年応募多数のため抽選になるため)現在カレッジソング担当(CD操作が主な仕事)のためこの研修会も休みにくい立場で もある。他にも家庭内菜園、スポーツジムでのヨガ教室とたくさんの趣味を持っているが、いずれもお金のかからない何時でも誰でも楽しく参加できる共通点が あり定年後の年金生活者にふさわしい趣味であると自負している。(この話の続きは次回以降に機会を与えていただければ幸甚である)


5. 最後に
  神戸大学グリークラブのメンバーには今回の選挙から投票権が与えられるが、(18歳以上)現時点では立候補(被選挙権)の資格は25歳にならないと得られ ない。
  ほとんどの学生は一流企業就職してやりがいのある生活を、あるいは公務員試験合格して安泰な生活を、あるいは大学院での幅広い知識を求めてさらにステップ アップを目指していることでしょう。従って、今のところ政治の世界に参加希望をされるかたは皆無かと思いますが、私は将来においても政治の世界に入ること はあまりおすすめ出来ない。
  何故ならば、この世界は浮き沈みが多くて不安定すぎるからだ。先ほど述べた通りお金は使えるが自由が利かない。仮に世のため、人のためという高い志があっ ても自由な発言が出来にくい、同じ政党の議員同士でも今日の味方は明日の敵となることが多い、常に有権者の顔色を見ていかねばならない、そして何よりも老 後の生活は保障されないのは大きなディメリットである(議員年金が廃止されたため)落選すればタダの人となる。当然ながら民間サラリーマンのような企業年 金、厚生年金のない老後生活は不安定である。(幸いサラリーマン生活43年間の私には企業年金、厚生年金、退職金の残りがあるが…) 
 
   以上がわずかな4年間ではあるが貴重な政治経験をさせていただいた徳重の感想である。    


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シリーズ「柳河風俗詩」について (その6)
 組曲「柳河風俗詩」誕生記  作曲家 多田武彦 (2016/05/17 前田 豊治)


   最終回は、多田武彦氏自身が記された『組曲「柳河風俗詩」誕生記』を転載します。

   1951年、私が京大の学生で京大男声合唱団の指揮者をしていた時、音楽之友の付録楽譜に、清水脩作曲の「月光とピェロ」が載った。すぐに練習を始め、 そ の年の定期演奏会で歌い、余勢を駆って清水脩作品発表会に「前座割り込み出演」を果たし(これには、当時の団員で、現在広友会のメンバーの一人である青木 信美先輩らの尽力があったが)、これを契機に、折に触れ清水先生とお話し出来るようになった。
  映画監督を志していた私が、家庭の事情で銀行に就職した時、音楽もやめようと思い、先生にご挨拶に行くと、先生から「日曜作家として、ア・カペラの男声 合唱組曲を少しずつ書いて行けよ」と勧められた。そして就職した1953年の11月から、月一度来阪される先生に「対位法」のレツスンを受けることになっ た。
  一回目のレツスンのあと、「理論だけでは駄目だから、次回までに何か習作を書いてきなさい」と先生から指示され、男声合唱組曲「柳河風俗詩」を書いて いった。
  私が、歌曲としての北原白秋先生の詩のすばらしさに感動したのは、旧制高等学校在学中、山田耕筰歌曲集を見た時である。
  白秋先生の、その時代時代の詩情に寄り添うように、耕筰先生の音楽が流れていた。
高校大学時代の夏休みに映画の現場の仕事をしていたせいか、詩の一区切りごとの詩情に合った映像を自分なりに脳裏に描き、この「映像と詩」にふさわしい音 楽を書いて行きながら「柳河風俗詩」を作曲していったことを、よく覚えている。
  例えば、第一曲の「柳河」の、《もうしもうし柳河じゃ柳河じゃ/銅(かね)の鳥居を見やしゃんせ/欄干橋を見やしゃんせ》の箇所では、地上20メートル ほどの高さから俯瞰した「柳河暮色」を想像しながら書き始め、《薊の生えたその家はその家は/旧いむかしの遊女屋(ノスカイヤ)/人も住まわぬ遊女屋》の くだりでは、背景に廃屋の黒褐色のぼかしを準備し、《裏のBANKOに居る人は》以降では、亡母の形見の郷土玩具の小手鞠を持った継娘(ままむすめ)の哀 感を描く、といった具合に‥‥
  「技術よりも心だ!」という芸術家が多いが、それはかなりの技術練磨を果たした人に投げ掛ける言葉であって、「合唱音楽に必要な基礎的技術」が不十分で は、「心」どころではない。
  外国の音楽評論家たちは、表向きは「日本の合唱は素晴しい」と称賛しているが、本音を聴くと異口同音に「西洋音楽の持つ楽式の構築性や、リズム・メロ ディー・ハーモニーの融合性と対峙性」の欠如を伝えてくる。
   この問題点について、昨年から広友会は、真摯な改善を始めている。「枝葉末節に捉われない正統的な演奏技術」を保持しつつあるし、「軟口蓋 共鳴の徹底 や、的確な声区の移動」など、従来無視されがちだった演奏技術を体得する一方、合唱音楽に必要な「統率美や集合美」を発揮し始めている。
 「独唱を単式テニスにたとえれば、合唱はラグビーやサッカー。合唱での独り善がりな個人プレーは禁物」といったことが、徹底され始めてきた。
 更に、楽曲の評論に酔ったり、不明瞭な日本語で歌ったりすることも、影を潜めた。内容の充実した右肩上がりの成長である。
  この先には、「音楽における色彩とても言うべき『和音感の体得』を全員がおこなう」という難事業が控えている。この峠を越えた辺りから、「心」が俎上に 上る。
  こうして多分二、三年後には、完成度の高い広友会が実現しそうだ。そんな気配を感じながら、「柳河風俗詩」の練習に励んだ。  


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シリーズ「柳河風俗詩」について (その5)
 柳河へ行ってきました  (2016/05/15 前田 豊治)


 今年(2008年)の念願のひとつが叶って、6月29日、30日の一泊二日で白秋のふる さと柳河へ行ってきました。妻と二人で。
  この4月から福岡で大学生活を始めた三男康彦をその下宿に訪ね、彼も連れて西鉄で柳川へ到着。市内観光案内をたよりに歩き始めると、ほどなく堀割が目に 入り、その向こうに鳥居が見えてきました。これが柳河藩初代藩主立花宗茂とその妻並びに宗茂の父親の三人を祀る三柱(みはしら)神社でした。先に見えた鳥 居が銅(かね)の鳥居、その手前の朱いのが掘割にかかる欄干橋で、これこそが柳川の玄関であり柳川の象徴だったのです。息子の手助けをうけ携帯電話で何枚 かのスナップを撮りました。生憎神社は三年前に火事に遭い、公的助成金と浄財により再建中とのことで人影もまばらでした。
  欄干橋の近くに「懐月楼の跡」という碑を見つけましたが、すでに薊の生えた遊女屋(のすかいや)はなく近代的な建物になっていました。またすぐ近くに川 下りの船着場がありましたが、20名ほどの人が乗り込み、他にも待っている人がかなりいました。「私一人で船頭さんを独占できるのでないと‥・」と贅沢な ことを言って船下りは止めにしました。
 青く淀んだ掘割や柳城中学校(柳河城址)などを見ながらタクシーで予約しておいた宿「柳川御花」へ向かいました。ここは柳河藩主立花家の別邸として建て られ、明治4年柳河城の炎上焼失後は立花候(伯爵)の邸宅になっていたが、第二次大戦後当主が庭園を一般にも公開し(松濤園)、邸を改造して旅館を営むよ うになった。白秋生家に近いこともあり、白秋の長男隆太郎氏や長女の薹子(とうこ)さん、白秋の弟子薮田義雄氏など多くの関係者が柳川訪問時の常宿として いるゆかりの旅館でした。建物の中をゆっくり見学させてもらい、松濤園という名の庭園の中も歩き回って見せてもらいました。外の掘割から引き込まれた水路 もあり、小さな船で行き来できるようになっていました。夕食には有明海の珍味とうなぎのせいろ蒸しが出てきて堪能させてもらいました。晩飯まで付き合った 息子は翌30日は月曜で授業があるため、8時過ぎの最終バスに乗り、また西鉄で福岡へ帰って行きました。
 翌朝我々二人は、朝食を済ますや、松濤園を抜けて掘割堤を歩き、からたち文人の足湯や水天宮、観光案内所、御花旧守衛室と巡りました。観光案内所では柳 川まりが興味深く、柳河城中で始まった手まり作りが広く庶民にまで伝わり、女の子の誕生祝としてのさげもんや雛祭り用の手まりすだれなどに発展していった ことがわかりました。柳川まりは何通りもの色糸を丹念に撚(よ)るように巻き込んでいくものでヽ母親から娘への思いがこめられたことは想像に難くありませ ん。
  つづいて、北原白秋生家・柳川市立歴史民族資料館を訪ねました。ここには詩聖北原白秋を生んだ水郷柳川の民俗と歴史、それに白秋の生い立ち、白秋の作 品・自筆原稿・書等々が詰まっており、とても2,3時間では見てまわれません。実は私は2度目の訪問なのですが、新たな感動がいくつもありました。吸収し 切れなさを補うために、この資料館で編集発行している書籍やCD・歌集などを欲張って買ってきました。

・  この白秋家にも掘割から引き込みの水路がちゃんとありました。
・  白秋の書は、改めて味があるなあと感じました。
・ 潟スキーや生け簀(す)等の漁具や民具はわが農村の昔の農具を見るときのような懐かしさがありまし
    た。
・  現代の柳川にも息づいている柳河藩と藩主立花氏の歴史に興味をそそられました。

   さらに白秋の母校矢留(やどみ)小学校と白秋詩碑苑に足を運び、「帰去来」の詩に触れてきました。 17歳で柳河を後にし東京へ出た白秋、父親の自己破産ということがあり地元には迷惑のかけ倒しで、一家して東京に移り住んだ北原一家、詩集「思ひ出」の序 で「水郷柳河は廃市である。・………さながら水に浮いた灰色の棺である」とまで断言した白秋でしたが、昭和3年、20年ぶりの郷土訪問には全町を挙げての 大歓迎を受け感激に咽ぶ白秋がいました。晩年糖尿病から視力が衰え移動が不自由な身になっても、詩・短歌等の創作意欲と望郷の思いは増す一方であつたよう です。
   おまけに沖端漁港と鮮魚問屋、もうひとつ旧戸島家住宅(典型的な武家屋敷)まで足をのばし、3時40分のバスで西鉄柳川駅へ向かいました。博多駅で5時 30分発ののぞみ号に余裕で間に合い、新神戸には8時前に到着、自宅へは9時前の帰着でした。

団員の皆様も一度柳川へ足を運ばれてはいかがでしようか。
 


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シリーズ「柳河風俗詩」について (その4)
 男声合唱組曲「柳河風俗詩」と 作曲者多田武彦 (2016/05/12 前田 豊治)


  今までから作曲者多田武彦に関する書物がないかな、多田武彦自身の言行録はないものかと探していますが、たまに季刊誌「ハーモニー」で持論が出るくらい でなかなかお目にかかれないものです。最近、私はインターネットで検索していて参考になるなと感じたことがありますので、以下に披露させていただきます。

1.多田武彦先生の略歴
   昭和5年(1930年)大阪に生まれる。祖父も父も興業会社「松竹」やその関連会社の役員で、祖父はこ
  の孫を興行師に仕立てようと、小学校に上がるや否 や、歌舞伎・映画・演劇・歌謡曲などを鑑賞させた。

  14歳で終戦を迎え、ジヤズやタンゴに興味を持ち、将来はミュージカル映画の監督にな りたいと思い、独
  学で作曲の勉強を始めた。
   1947年4月旧制大阪高等学校に入学し、大高コーラス部の練習を覗いた途端、勧誘され入部させられ
  てしまった。ここで初めて男声合唱を知ることになる が、1年先輩に美声のバリトン田中信昭氏(元東京
  混声合唱団常任指揮者)がいた。
   1950年4月京都大学法学部へ進むとすぐに京大男声合唱団に入団、その年の秋には正指揮者を命ぜ
    られ、関西合唱コンクールで初めて三位入賞。翌年は余 勢を駆って二位に入賞した。この年組曲「月光と
    ピエロ」を歌ったのが縁で作曲家清水脩と出会った。
     1953年、家庭の事情で就職せざるを得なくなり、富士銀行に就職内定を得て、清水先生にお礼かたが
    たその報告と、この際音楽を止める意向を伝えに行っ たところ、「日曜作曲家としてア・カペラの男声合唱
    組曲を少しずつ書いていったらどうか」と勧められた。
      1954年に第一作組曲「柳河風俗詩」、1956年組曲「富士山」、1957年組曲「雪と花火」と、一年一作の
    日曜作曲家が誕生した。
      一方で銀行では多田先生は融資畑を進んだ。やがて「医者は予防医学と治療医学を駆使して人を助
     ける。何等かの原因で業績不振に陥った企業に対しても、そ うならないための工夫と、早期発見と適切
     な処置をすれば、倒産しなくて済む。会社が倒産しなければ従業員とその家族は路頭に迷わなくて済
     む。人員整理をし ないで何とか会社を再建することが自分に課せられた使命だ」と考えてあらためて法律
  の勉強をやり直し、「実社会の動きに適応した法律」を身につけ、大企業 から中小企業まで多くの再建に
  尽力した。

2.組曲「柳河風俗詩」のエピソードなど
 清水脩先生からの薫陶
(1)関西商法の格言に「ひとのせんこと、せなあかん」というのがあるのを多田君も知っているだろう。西洋
   音楽の作曲については、君は専門の学校で学んで いない「ど素人」だから尋常な手段では玄人とは闘
     えない。その玄人があまり手がけていないことが二つある。一つは名作の徹底分析だ。たとえば、ムソ
     ルグス キー作曲・ラベル編曲の管弦楽組曲「展覧会の絵」のスコアを買ってきて、各楽器別に、リズム・
    メロディー・ハーモニーがどのように用いられているか、実践 的楽式論がどのように駆使されているかを
   徹底分析してみろ。更に君が感勁した名曲を徹底分柝してみろ。
   もう一つは、西洋音楽とは異なる動態芸術の徹底分析だ。幸い君は、松竹(株)創業期の役員だったお
   祖父さんの指示で小学校の頃から歌舞伎・浄瑠璃・邦楽・ 映画・大衆芸能を見聞きしてきたと聴く。その
   実績を生かして独自の曲の構成を考えろ。
(2)日本歌曲や邦人合唱曲は「日本の詩と西洋音楽による複合芸術」であるから、可能な限り、「西洋音楽
      の構築性に馴染む詩を厳選する」こと。そして、作曲に際しては、日本の詩に内包されている「起承転
      結・喜怒哀楽・春夏秋冬・花鳥風月」を考慮しながら、前記(1)の二点を踏まえて書き上げていくこと。
(3)作品に対しては毀誉褒貶は付き物だ。概して褒め言葉には嘘がある。忠告・批判・非難・誹膀・罵言雑
      言の中にこそ真実がある。そこに君の弱点が潜んでいるから、これを真摯に受け止めろ。但し人間は万
      能ではないから、納得できる事項について爾後の精進への糧とせよ。その選択権は君自身にあり、何
      人も強制できない。

中田喜直先生からの薫陶
       作曲家中田喜直先生から「君は弦楽器を練習していたことはあるの」と尋ねられ、「ヴァイオリンを少
     々」 と答えると「やはりそうか」と仰って、「『柳河風俗詩』からは弦楽合奏曲の香りが漂ってくるよ。歌う
     人や聴く人は、心のどこかで弦楽合奏曲『柳河風俗詩』を聴いているのだ」と話されました。
        中田先生は生粋の東京生まれ、東京育ち。良い機会だと思って「共通語アクセントの遵守規準なるも
      のを教えてください」とお願いしたところ、以下の教導を賜りました。
(1)声優が詩の朗読をする時や、アナウンサーがニュースを読む時などには共通語のアクセントをきちん
      と守る必要があるかもしれない。―方、日本歌曲や合唱曲は、美しい日本の詩と西洋音楽によって作ら
      れる複合芸術であるから「ここは詩の心に重点を置く、ここは音楽の方に重点を置く」といった具合に、
      作品を構築していくことが肝要。私の「夏の思い出」もそのように配慮してあるから参考にしてみなさい。
      「何が何でも共通語のアクセントで作曲しなければならない」とか「この詩のこの部分はこうしなければ
      いけない」とか、そのようなことに拘りすぎると全体が崩れてしまう。
(2)多くの優れた歌手や聴衆は、詩を読んでいるだけでなく、私の「夏の思い出」も君の「柳河風俗詩」も詩
      人の魂を胸中に置いてイメージを作りながら、西洋音楽のリズムとメロディーとハーモニーが醸し出す豊
      かな曲想と構築性を同時に鑑賞してくれている筈。「柳河風俗詩からは弦楽合奏曲の香りが漂う」と
      言ったのも、音を中心に聴いていると、四つの起承転結が良くできていて、小組曲ながらしっかりした構
      築性を示していたからだ。「夏の思い出」も共通語のアクセントに拘泥することなく、詩人の描く尾瀬の詩
      情に寄り添いながら、一方では西洋音楽の独自性と構築性を遵守して作曲している。
(3)山田耕筰先生も言っておられたが「早稲田大学関係者以外の人々にも愛唱されている早稲田大学校
      歌では、共通語のアクセント通りになっていない箇所が一番だけでも11箇所ある。一番では『早稲田』と
      いう言葉は8回出てくる。共通語のアクセントでは『ワセダ』は『ワ』を高く『セダ』を低く発音することに
      なっているが、8回のうち6回の旋律は『ワ』が低く『セダ』が向上するように作曲されている。しかし、多
      くの優れた歌手たちや聴衆たちは、このことをとやかく問題視したり、これに拘るようなことはない。何故
      なら、相馬御風先生の詩の素晴らしさと、その詩人の魂を胸に秘めて『西洋音楽のリズムとメロディーと
      ハーモニーと楽式論』が醸し出す豊かな曲想と構築性を駆使した東儀鐵笛先生の作曲の見事さに、多
      くの歌手たちや聴衆たちが感動しているからだ」。

欧州系西洋音楽関係者からの助言
   合唱・弦楽合奏・管弦楽等アンサンブルを重視する西洋音楽の演奏につい
(1)日本人の演奏によるアンサンブルを重視する西洋音楽の演奏を、都度彼らに聴いてもらい、何が不足し
      ているかを指摘してもらったところ、異口同音に以下の答えが返ってきた。
  (ⅰ)いくつかの名演奏があった。そして「西洋音楽についての指揮者の正当な解釈と構築力」、「それを
          表出するためのメンバーヘの高い指導力」等によるものであることは十分認識できた。しかしそれと
          同時に、これらの名演奏を完成させたメンバーのあることを見逃すことはできない。
  (ⅱ)それは何かと言うと、これらのメンバー達は「演奏だけをしているのではなく、常に聴き耳を立て、自

          分たちの作りつつある演奏の出来不出来を検証している」ということだ。
  (ⅲ)もしメンバー一人一人が、得意げに美声や技巧を振りかざして演奏したり、聴き耳など立てずに自分
         流の勝手な手法で演奏していたら、このような演奏は実現しない筈。
(2)それでは、主要欧州系各国の状況は?と尋ねてみると、
  (ⅰ)主要欧州系各国でも音楽をやる時は、「皆で楽しくやろう」とか「儀式や祭りを盛り上げよう」とか「皆
          で気持ちを合わせて仕事を進めるために労働歌を歌う時」などには、必ずしもアンサンブルを意識し
          て演奏しているとは思わない。
  (ⅱ)しかし千年以上の歴史の中で、人々は賛美歌や民謡が演奏されている中で成長し、その過程で西
         洋音楽の構築に必要な事項を聴覚を通じて習得している。
  (ⅲ)そして「うまく演奏してやろう」とか「聴衆を感動させてやろう」とかを考える前に、西洋音楽構築上必
          要な事項、すなわち、「リズム・メロディー・ハーモニーの三要素と実践的楽式論」や「時間
          的動態芸術の表現に必要なデュナーミク・アゴーギク・コロリート・フレージング」といった基礎的技術
          を徐々に身に付けていく。
   (ⅳ)そして最後に必ず「その持てる能力の三分の一くらいで演奏をし、残りの三分の二でもって聴き耳を
          立てて、自分たちの作りつつある演奏の出来不出来を検証している」ということの大切さを、メンバー
          の一人一人が指導を通じ、伝統を通じて体得しているのだ。
(3)ウィーン・フィルやベルリン・フィルなどの弦楽器奏者たちは、個々には世界的にも超一流の演奏家であ
      るが、交響楽団の一員として練習する時は「リズム・メロディー・ハーモニーの三要素と実践的楽式論」
      や「時間的空間的動態芸術の表現に必要なデュナーミク・アゴーギク・コロリート・フレージング」といっ
      た事項について、演奏しながら「パート内での整合陛」、「他のパートとの整合性」、「管楽器や打楽器と
      の整合性」に聴き耳を立て、その結果醸成される「統率美・集合美」に心酔し、そこで初めて作品の心に
      触れ、心をこめて演奏を完成させている。
(4)日本に西洋音楽が入ってきてから未だ130有余年。しかし戦前の音源を試聴する限りでは、残念ながら
      前述のような好事例はあまり見られない。終戦 後、西洋音楽が浸透したと言っても、千年以上の歴史を
      持つ主要欧州各国の水準までは到達していない。これは出来ないのではなく、やっていないだけだ。
      「東 大寺修二会や名刹における声明」や「江差仕事唄などに見られる労働歌」を聴くと、身震いするよう
      な「統率美・集合美」に感動の涙が溢れる。

 今回(2008年)の組曲「柳河風俗詩」の練習や本番に際しては、楽譜の細かい指示事項を遵守するだけでなく、都度自分たちが作っている音楽に聴き耳を 立てて演奏してみてください。
 そこから生まれ出る「統率美・集合美」が聴衆に今までと違ったある感動を与えることでしよう。 


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シリーズ「柳河風俗詩」について (その3)
 男声合唱組曲「柳河風俗詩」 (2016/05/10 前田 豊治)


 
 北原白秋の第二詩集『思ひ出』の最終部分に集められた23編の詩は、「柳河風俗詩」と題して一まとめにされている。詩集発刊直前、25歳頃の白秋が自分 の故郷柳河と自らの幼少年時代を詩人の目で振り返った自信作であった。南国的・異国情緒を持った柳河方言を随所にちりばめ、わらべうたー民謡・小唄のー節 を織り込んだり、文語体や五七調にとらわれない自由詩であった。

I 柳河
    柳河風俗詩23編の冒頭の詩であり、白秋自らの案内で読者を少年時代の柳河にいざなおうという趣向
    であろうか。
   銅(かね)の鳥居と欄干橋は、柳河藩初代藩主夫婦と父親を祀る三柱(みはしら)神社の玄関であり柳河
   の象徴でもある。街に入るとまず目に付くのが立て横に張りめぐらされた溝梁(ほりわり)とそのよどんで 
  濁った水である。そして屋根に
 薊(あざみ)が生えるまで廃 れた遊女屋(のすかいや)と、縁台に出て母親
 の形見の 小手鞠(当時の伝統的工芸品)を涙ながらに結んでいる若い継娘。それらが溝梁(ほりわり)の水
 に映って何ともやるせない。旅人も去り赤い夕日の頃となると柳河のまちはいっそう寂しくなり、子供たち
 の夕焼け 小焼けの声が流れていくばかりである。


     もうし もうし お客さん! さあ柳河ですぞ、柳河ですぞ。銅(かね)の鳥居をごらんなさい。欄干橋を
     ご らんなさい! (馭者はラッパの音を止めて赤い夕日に手をかざしてみる)
     薊(あざみ)の生えたその家はむかしからの遊女屋(のすかいや)なのだが、今は住む人もない遊女
            屋(のすかいや)になっている。裏の縁台にいる人は、あれは隣の継娘である。溝梁の水に映ったそ
            の影は、母の形見の品の小手鞠を赤い毛糸で結んでいるのだ。自分の身の上を嘆いてか、涙なが
            らに結んでいるのだ。
     もうし もうし 旅の人よ! あれあのもの哀しい三味線の音をお聞きなさい。鳰(かいつぶり)の浮き
      上がってくるのをごらんなさい! (馭者はラッパの音をさせなが ら、暮れようとする夕日の街に消
            えてゆく) 
     夕焼け小焼け、明日(あした)天気になあれと子供たちの声
  
Ⅱ 紺屋(こうや)のおろく
     それにしても憎らしいのは紺屋(染物屋)のおろくだ。猫を抱えてそ知らぬふりして通り過ぎる。それに
     しても憎らしいのは、指先を濃い青に染め、 金の指輪を見せびらかすようにしやがる。それにしても憎ら し
     いことに、何とも眼つきは薄情で、良い前掛けに博多帯姿でカロコロ音を立てながら歩きやがる。憎ら し
  い猫め、赤い夕日にふと身につまされて、潟にはまって死んでしまえばよい。とは思ったものの本当に死
  なれてしまっては……トホホ。トホ ホ……。
 
   この詩の背景には、白秋が7歳の水天宮祭の夕方の衝撃的な初恋の経験をしたことがあると思われる。白秋の―方的な片思いであったが、その後もその少女を見 るたびに「羞恥に満ちた幼い心臓は紅玉(ルビー)入りの小さな時計でも懐中に匿しているように」なったそうである。
 ところで「おろく」とは誰であろうか。一般的には初恋の相手の少女その人、或は初恋の相手をかなり成熟した女にしたてたものと見られているようである。 柳河出身のある白秋研究家の説で「おろく」は白秋の初恋の少女の乳母で、お嬢様にムシがつかないようにいろいろと意地悪なことをした人であろうというのが あるが、こちらのほうが自然なような気がする。

Ⅲ かきつばた
     柳河の昔ながらの溝梁に楚々と咲くかきつばた―――昼間は良家の娘さんの手で床の間に生けら
       れるのかほんのりといい香りを漂わせるが、やがて日が落ち川面を渡る夜風にものうい三味の音が流
       れてくるころになると萎れはじめる。あたかも切ない浮世に泣きあかすしかない女のように。

  (鳰(かいつぶり)の頭は火がついたように赤い! と思っていると水にもぐってしまい 火も消えてしまった)

 白秋は柳河の象徴の一つであるかきつばたに柳河に住む美しい良家の娘をだぶらせて、廃れゆく町柳河の表面の美しさとその裏の切なさを表そうとしたものと 思う。組曲ではリフレインを使ってその思いを一層鮮やかにしている。

IV 梅雨の晴れ間
        夏が近づくと柳河に旅役者がやってくる。今日の出し物は「歌舞伎義経千本桜」である。ところが先日
     来の雨で韮畑に特設された芝居小屋はまだ水溜り状態であり、昼からの開演に間に合わすべく花道の
     下では溜まり水を汲みだすための足踏み式水車を踏むのに忙しい。

       廻せ廻せ水ぐるま! 今日の午後から忠信が隈取も赤い面(かお)をして足取り軽く、手さばきも軽く狐
        六法を踏みつつ大見得を切る花道。その下の水を汲み出せ。

       廻せ廻せ水ぐるま! 雨に濡れた古むしろの覆い―――丸い天井型につないだ屋根だが青い空が透
         けて見え、差し込む日光は七宝焼きのようにきらきらと化粧部屋(楽屋部分)にもほほえみかけてい
         る。

      廻せ廻せ水ぐるま! 梅雨の晴れ間の一日をせめて楽しく浮かれよと回り舞台も滑るのである。廻り
        舞台の下は葱畑になっているが、そこに溜まった水を汲み出せ!

       廻せ廻せ水ぐるま! 赤と黒の交互に染められた幕を少しかかげて女形の役者も覗いている。平土
        間  (舞台正面の枡形の見物席)に溜まった水も汲み出せ!田舎芝居の行なわれる韮畑の!

       廻せ廻せ水ぐるま! 早くも昼を過ぎれば忠信が紅隈取した赤面で足取り軽く手さばきも軽く、狐六
       法を踏みながら大見得を切ることになる。花道の下の水車、しっかり踏もう!


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シリーズ「柳河風俗詩」について (その2)
 白秋と柳河風俗詩 (2016/04/29 前田 豊治)


 北原白秋は明治18年(1885年)福岡県柳川市沖端町に父長太郎、母しけの初子として 誕生する。北原家は代々、立花藩(11万石)の御用達をつとめた 海産物問屋で、父の代では酒造業をメインとし家族使用人百数十人を抱えていた。異母兄は夭折していたので白秋(本名隆吉)は事実上の嫡男として乳母をつけ て大事に育てられた。まわりからはトンカ・ジョン(大きい坊ちやん)と呼ばれた。感受性が強く、虚弱体質であった白秋は小学校の頃から読書欲旺盛で外祖父 の蔵書を乱読、中学に進んでからは友人達と回覧雑誌を発行するようになり、学業よりも短歌を中心とする文学活動に傾いていく。事業家であり商売人である父 とは当然あいいれず、19歳で上京、早稲田大英文科予科に入る。若山牧水や土岐善麿などの友人に恵まれ、短歌・詩の創作に励み「文庫」や「明星」に投稿し 新進詩人として認められるようになる。
  詩集の刊行は、処女詩集『邪宗門』が明治42年3月、詩集『思ひ出』は明治44年(1911年)5月で、上田敏の絶賛を受けることになる。 詩集『思ひ 出』の構成は巻頭に「わが生い立ち」と題した長文の序文があり、柳河の紹介、自己の生い立ち、文学者としての決意を述べ、故郷と幼年時代の自分への決別を 宣言している。目次として、序詩、骨牌(かるた)の女王、断章、過ぎし日、おもいで、生の芽生、TONKA JOHNの悲哀、柳河風俗詩の八つに分かれており、男声合唱組曲に登場する4編(柳河、紺屋のおろく、かきつばた、梅雨の晴れ間)は最後の柳河風俗詩の部 分に収められており、その一番目が柳河である。
  つぎに、「わが生ひ立ち」から抜粋を示して参考としたい。
  時は過ぎた。そうして温かい苅麦のほめきに、赤い首の蛍に、或は青いトンボの眼に、黒猫の美しい毛色に、謂れなき不可思議の愛着を寄せた私の幼年時代も 何時の間にか慕わしい「思ひ出」の哀歓となってゆく。
  捉えがたい感覚の記憶は今日もなお私を苛立たしめ、恐れしめ、嘆かしめ、苦しませる。この小さな抒情小曲集に歌われた私の十五歳以前のLifeはいかに も幼稚な柔順しい、然し飾り気の無い、時としては淫婦の手を恐るる赤い石竹の花のやうに無智であった。そうして驚きやすい私の皮膚と霊(たましひ)とはつ ねにきりぎりすの薄い四肢のやうに新しい発見の前に喜び顫(ふる)へた.兎に角私は感じた。さうして生まれたままの水々しい五感の感触が私にある「神秘」 を伝え、ある「懐疑」の萌芽を微かながらも泡立たせたことは事実である。さうしてまだ知らぬ人生の「ひみつ」を知らうとする幼年の本能は常に銀箔の光を放 つ水面にかのついついと跳ねてゆく水すましの番(つがい)にもわなないたのである。
  尤も、私は過去の追憶のみに生きんとするものではない。私はまたこの現在の生活に不満足な為に美しい過ぎし日の世界に、懐かしい霊の避難所 を見出そうと する弱い心からこういふ詩作にのみ耽(ふけ)ってゐるのでもない。 一中略一
  私の郷里柳河は水郷である。さうして静かな廃市の一つである。自然の風物は如何にも南国的であるが、既に柳河の街を貫通する数知れぬ溝渠(ほりわり)の にほいには日に日に廃れてゆく旧い封建時代の白壁が今もなほ懐かしい影を映す。 一中略一
  水は清らかに流れて廃市に入り、廃れはてたNoskai屋(遊女屋)の人もなき厨(くりや)の下を流れ、洗濯女の白い洒布に注ぎ……  一中略一
  畢竟私はこの「思ひ出」に依て、故郷と幼年時代の自分とに潔く決別しやうと思う。過ぎ行く―切のものをしてかの紅い天鷲絨(ビロード)葵のやうに凋まし めよ。私の望むところは寧ろあの光輝ある未来である。而して私の凡ての感覚が新しい甘藍の葉のように生きいきと強い香りを放っている「刹那」の狂ほしい気 分の中に更に力ある人生の意義を見出すことである。終にたった一人の愛する妹の為に、その可憐な十の指の何時までも細くしなやかならんことを切に祈って置 く。


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シリーズ「柳河風俗詩」について (その1)
 北原白秋について (2016/04/27 前田 豊治)


 それこそ学生時代から「この道」、「からたちの花」、「ペチカ」、「城ヶ 島の雨」等々私の好きな歌曲が沢山あり、北原白秋という名には親しみを感じてい ました。また「落葉松」という詩は暗唱するほど好きでした。
 けれども白秋という人と作品に関心を持つようになったのは、1999年神戸男声で男声合唱組曲「柳河風俗詩第二」に出会ってからです。この1999年 (平成11年)というのは私の神戸男声入団3年目でして、当時は銀行の本店に勤務していたため定時練習の3割程度しか参加できなかったように思います。 ゴールデンウイークに思い切って家族で島原と柳川ヘドライブしてきました。3日目の朝から柳川市内に入り、水天宮や溝渠を見てまわり、白秋の生家である 「白秋記資料念館」にはゆっくり浸ってきました。嬉しかったのはそこで復刻版の白秋詩集『思ひ出』を見つけたことでした。中でも詩集の序文として白秋自ら が記している「わが生ひ立ち」は後で読んでみて、詩集『思ひ出』や組曲『柳河風俗詩第二』の理解に資するところが大きかったように思います。昭和27年柳 河は市制施行に際して「柳川市」になっていました。
 つづいて2002年(平成14年)には男声合唱組曲『水墨集』で再会することになります。白秋自身が書いた歌論やいろんな詩人の書いた白秋論を見ました が、藪田義雄著『評伝 北原白秋』(昭和53年5月玉川大学出版部)はその考察が幅広くかつ奥深くとても参考になりました。  この夏(2008年)、家族で沓掛~軽井沢~浅間~小諸とドライブしてきました。落葉松や白樺に出会えて嬉しかったのですが、『水墨集』の世界とは少し ずれていました。
 そして、今回(2008年)、男声合唱組曲『柳河風俗詩』で三たび北原白秋に接することになりました。詩人三木卓による評論『北原白秋』(2005年3 月初版筑摩書房)を神戸中央図書館で見つけてきて、短歌を柱にした白秋の生涯をたどることになりました。


 北原白秋『柳河風俗詩』に関して今年(2008年)やりたいと思っていることを列記してみます。
     1.柳河の地を再訪問すること 
      1.詩集『思ひ出』の序文『わが生ひたち』を繰り返し繰り返し読むこと 
     1.『評伝 北原白秋』を再読すること  
     1.歌舞伎義経千本桜を調べること-『梅雨の晴れ間』の理解のため 
     1.作曲者多田武彦と柳河風俗詩とのかかわり合いについても 
     1.白秋全集、その他白秋に関する書物を探すこと  


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オルフェイ・ドレンガーからのメッセージ (2014/10/22 増川 真澄)


    去る10月19日、ザ・シンフォニーホールでおこな    われました「スウエーデン王立男声合唱団(オルフェ
   イ・ドレンガー)の演奏会に行ってきました。
    20歳  ~50歳位の90名からなるアカペラ男声合
  唱団です。
    大人数にもかかわらず、大地を揺るがすような響き
  は力強く、それでいて全体としては優しく空 間を包み
  込むハーモ  ニーとアンサンブル・・・ 私の貧困なヴォ
  キャブラリーでは、これ以上の感想を述 べることはで
  きませんが、久しぶりに男声合唱の醍醐味を十二分
  に味わってきました。
    前置きはこのくらいにして、当日のプログラムから、
  彼らの目標とするもの、練習、演奏に  あたっての心
  構え等のメッセージをご参考までにお伝 えいたしま
  す。
   (前略)レッスンにあたっては、身体の中で、音はど
  こから生まれるかということに注目するのはとても大
  事です。具体的にいうと、技術面では自然な呼吸、
  そ れから胃、胸、喉をいかに積極的に、またいかに
  緊張させずに使うかです。 精神面では100%の集
  中力。自分の音だけではなく、混合した音を作るた
  めには、周りのメンバーの音に注目することが大事
  です。母音や音程の正確さ、それ も作曲者が書いた音を正確にーーダイナミクスや アーティキュレーショ
  ンにおいてーー演奏するにも100%の集中力が必要です。 (演奏に際しては)音楽の本来の意味ーー
  それはつまり深く強い感情の表現と作曲家に対する責任ーーを絶対に忘れないこと、それはメンバーに
  とってとても大 事なことです。指揮者とメンバーは作曲家が望んでいることを果たせるよう、一所懸命 に心
  掛けなければいけません。  作曲家の要求を果たせるよう、練習では純粋な技術的な練磨を行います。
     そして、目標を達成するためにはたくさんのリハーサルが必要です。  公演の雰囲気というものはとて
  も特殊で、準備しにくいものです。それ故にだから技術の面でも、音楽の面でも、準備が万全であること
  はどんなときでも肝心 です。 舞台に出る直前の瞬間も大事です。合唱団が、指揮者と一緒に舞台に出
  て拍手を浴びる、期待を感じる、その瞬間は練習と本番の一番違うところです。 なんといってもお客さん
  との出会いは魅力的な瞬間です。(後略)
  と、いったところですが、なんということはない、
     常に指揮者の皆さん  から指導を受け、あるいは我々自身が常に思っていることばかりです。なんら
  変哲なこと はありません。
     要は、これらのことを如何に誠実に、確実に、心に銘じて実行するか、ということですよね。
      もっともプロとアマの環境の違いはあるでしょうが、目指すところは一緒だと思いますが・・・
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一日四食の奨め (2014/06/01 正井 春吾)

 「ダイエットには早めの夕食が鉄則と言っても、どうしても早く夕食をとれない人が多いようです。仕事から帰宅すると夜9時を回ってしまう……そんな人に は夕方に軽く食事を取り一日四食にすると良いでしょう。」と言うダイエットの話をしようと言うのではありません。

  「一日四度のメシを食え。一度は活字のメシを食え」との古からの言い伝えを「一日四度のメシを食え。一度は楽譜のメシを食え」と置き換えた 小生所属の混声合唱団の話です。奈良フロイデ合唱団の名の通り元々は第九を歌うために1976年創団の合唱団なのですが、小生73歳の2005年にヴィ ヴァルディの「グロリア・ニ長調」を演奏すると言うポスターを見てヴィヴァルディがハテどんな合唱曲を書いているのだろうとの好奇心で門を叩いたのが運の つきで以来9年間所属しています(今年は六甲の記念演奏会もあり休団中です)。

 2006年12月に京響、西本智実指揮での「第九」等『第九』の演奏会には年季の入った合唱団ですから新入団者も暗譜でなければ登壇出来ません。が、当 時は日本語の曲以外は暗譜を強制される事ははありませんでした。所が2007年に関西フィル、下野竜也指揮でヴェルディの「レクイエム」を演奏した時から 完全暗譜が原則となりました。合唱指導者は暗譜なしでは速いオケに付いていけないと思い、逆に下野竜也指揮者は素人合唱団のヴェルディの全曲暗譜に当初は 危惧を抱いたようですが何度かの本番指揮者練習を重ねて居るうちにこれならと納得されました。これが合唱指導者に自信を与えたようです。以後モツレクも フォーレのレクイエムも暗譜演奏しています。さすがにブラームスのドイツレクイエム(京響、広上惇一指揮)の本番ではまさかの保険で楽譜を持つ様にとの広 上指揮者のアドバイスもありましたが、「奈良県合唱祭」とか「ムジィークフェストなら」ではピアノ伴奏と言う事もありこの曲を暗譜演奏をしました。

  ラテン語もドイツ語も生まれて始めての大勢のおばあ(?)様などが1時間前後にもなる全曲を覚えるには「一日一度は楽譜のメシを食う」以外 に術がありません。合唱指導者は記憶は9時間で64%は忘れるので一週間に一度の練習で暗譜するのは絶対に無理で毎日毎日忘れる頃に楽譜を見て憶えなおす 事を積み重ねていく以外にないと言います。その代わりに演奏直前になると合唱は一人で歌うのではなく皆で助け合って歌うのだから忘れても大丈夫と思って登 壇する様にと優しく背中を押してくれます。

 我々の今年のケルビーニのレクイエムもピアノ伴奏ではなくオケ伴です。ピアノ伴奏なら島崎さんが優しくフォローしてくれますが、楽譜と首っ丈ではオーケ ストラに置き去りにされそうな曲や箇所がアチコチにある様に思います。60歳台の若い団員は別として毎年、記憶力は衰える一方なのに時間丈は充分もってい る後期高齢の私等には今年の六甲は「一日四食」で楽譜のメシが必要な年の様に思いますが、どうでしょう?  

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女房と捕り物帳(2) (2014/05/31 加藤 雅夫)

今年一月より復帰させていただきました。温かく迎えていただきまして有難うございます。
 どうかよろしくお願い申し上げます。
 娘が結婚して川崎におりますが、仕事を持っており孫の世話等で「川崎に来てよ」ということになりまして、女房と共々、三年間程川崎に行ってお りました。 自分の趣味にも少し時間を割けるようになりまして、合唱に山歩きにと健康管理に時間を割ければと思っております。
 以前六甲男声合唱団に入団しました時に、やはり投稿させていただきましたのが表題でした。
 実は以前より池波正太郎、藤沢修平の大フアンでして、ほとんど本を読みつくしました。単行本文庫本が山のようにわが家にありますが、年を取り また読むのを玉手箱を開けるように楽しみにしております。結構な嵩になるもので、「邪魔になるので、売ってしまいなさいよ」、「少ないコズカイの少しは足 しになるでしょう」です。女房とは読む本の分野が全く違いますので、私の本の管理維持が大変です。がいつから読みだそうかと楽しみにしています。
 一月より練習に参加しておりますが、ピッチが下がることリズム感が悪いことを痛感しております。やはり発声、音出しの重要性をしみじみ、私の 実力に合わせて感じているところです。
 今回はアンコールの会に参加させていただきました。
 四年前の芸文ホールのアンコールの会に参加しました時と比べまして、やはり各団体の人数が減っているのにびっくりしました。
 六甲男声は卓越した指揮者の両先生、技術スタッフ、運営スタッフ皆様がおられ、特に他の団体にはない素晴らしいピアニストがいらっしゃいま す。 また、練習時の指揮者、ピアニスト、各団員間の絶妙な掛け合い、呼吸が何とも言えず、素晴らしいと感じました。
 私も自信をもって、大学の同窓にとらわれず、勧誘に心掛けていきたいと思っております。  

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六甲男声に入団して (2014/05/30 永井 哲郎)

本年(平成26年1月)、初めて練習に参加させていただきました。
 グリーを卒業してからは、住生の職場のコーラス部に所属していましたが、約3年ごとの転勤で、いつしかコーラスから遠のく時期が30年ほどあ りましたが、尼崎のホテルニューアルカイック勤務時、ホテルの同僚やロータリーの先輩からの誘いで、尼崎の商工会議所内のコーラス同好会(アクシーエ コー)に都合10年ほど加入しておりました。混声合唱団ですが、男性が少なく、貴重なベースとして続けていました。
 本年3月末には、住生での42年間の会社員生活に終止符を打つことになり、丁度これからの身の処し方を考える時期でもありました。以前から、 アンコールの会、さらには六甲男声の定期演奏会にも何回か足を運ばせて頂いていました。また、グリーの関西地区OB会でも井上先輩や前田先輩からも声をか けていただき、今回の入団となったものです。
60年も続けられてきた事を本当に尊敬しますし、むしろ畏怖さえ感じております。
毎回の練習は、今までのコーラスとは一味もふた味も違って、わくわくしながらやらせて頂いています。
 今回は入団して初めてのアンコールの会のステージにも立たせていただきました。 大中恩さんの「出会い、別れ、そして今新たな旅立ちの日を」現在の自分に置き換えて 歌いました。繊細な日本語の難しさを感じながら・・・・。
 次はレクイエムです。長央先輩や東先輩の間に入って音を探りながら練習に励みます。

 さて、もう一つやっている事があります。クラリネットです。2年間個人レッスンを受けております。この前、初めて、ピアノの伴奏で演奏を行い ました。まだ まだ、人様にお聞かせ出来るほどの腕ではありませんが、これも物にしたいなあと月2回のレッスンに 通っております。  

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六甲男声合唱団初参加の所感 (2014/05/29  坪内 啓二)

5月11日のANCORの発表会に初めて参加させていただきました。
各合唱団ともお揃いのスタイルで出演され、また観客が1千人超となり、なかなか立派な発表会で感動しました。
3月に入団したての頃は、初めて聞く歌や、初対面の諸先輩の言動にやや緊張気味でありました。 特に、一部、「ケルビーニのレクイエム」の曲の練習の時に は、(一寸附いていけるどうか不安に駆られ)少々気落ちしたくらいでした。
 しかしながら、毎週火曜日の夜、練習を重ねていくうちに、大仲恩氏の曲の内容が 心に沁みてきて、良い曲だなと思うようになりました。 途中で、暗譜が原則との ご指示があった時は、エーッと叫びましたが、何とか、詩の暗記だけでもトライしよう と思い、武庫川を散歩する際にメモをもちながら、1曲ずつ覚えていきました。
その時、何と、暗譜するということは、詩と曲想を理解するための第1歩なんだな、 そして指揮者の求めているものが何かを掴むためにも、とても大切なんだな、と思い当たりました。(尤も、ケルビーニはとても無理とは思いますが)
まだまだ、合唱団の水準には、かなり遠く、附いて行くのがやっとの状態ではありますが、監督、指揮者、団員の皆さんの合唱に対する真摯な姿勢と優しさを見 習いながら、「草原の別れ」のように、自分を奮い立たせていきたいと思っているところであります。  

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初めまして (2013/07/23 岡澤 徹)

 毎年開催される神戸大学グリークラブ関西OB会にこの数年間毎回参加し、近い将来に六甲男声合唱団への入団を希望していましたが、日常担当業務から卒業 できず、やっと今年4月初めに入団させて頂きました。
社会人となって約5年間は職場(東京海上火災保険株式会社)の合唱に参加しましたが、東京への転勤以降は全く合唱から遠ざかり、約10年前からメサイア、 混声合唱等を演奏会で聴いて楽しんでいます。
約40年振りに今春再開。この間のブランクは余りに長く、発声・読譜等も苦労の連続ですが、はや3月経過し、永年真摯に練習されている先輩諸氏にやっと僅 かながら部分的に追いつきつつあるとの感覚を持てるようになりました。
約2年前、元職場の先輩・同僚からのお誘いで一眼デジタルカメラを習い始めましたが、電子光学関連の技術革新のお蔭で、最近は初心者でもそれ相応の写真撮 影が可能で、小旅行を兼ねた野外撮影会等もエンジョイしています。
男声合唱・カメラ他の芸術、読書等の知的生活習慣を継続・強化し、魚・野菜中心の食習慣及び週3回以上の運動習慣も継続して、アルツハイマー型認知症予防 の一助にもしたいと思考している今日此の頃です。

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六甲男声合唱団に入団して (2013/07/10 大隅 国雄)

 これまでに伊藤忠の混声合唱に携わってきましたが、指揮者の肥塚さんが参加されている六甲男声合唱団の演奏会にこれまでも何度か足を運び、今年の5月 26日の「五つの男声合唱の集い」を鑑賞した後で肥塚さんに感動したむねをお伝えしたところ、一緒に六甲で歌わないかというお誘いを受けて喜んで参加させ て頂くことを決断しました。
背景としては90年代にジャカルタ在留邦人で構成する混声合唱と男声合唱の両方の経験をしてそれぞれの良さを知りながらやはり良質な男声合唱に勝るものは 無いという認識をもつに至ったことにあります。
6月から早速毎週一度の練習に参加させていただき、皆さんの基礎歌唱力の高さに感心しております。やはり若い時からグリークラブで徹底的に鍛えられた方々 ゆえに、これまでの私の伊藤忠でのコーラス環境とは大きな違いを感じます。すなわち音程もリズムもさほど外す方は居られず、練習を重ねるたびに精度が上 がっていく様子が手にとるように分かり精神的な充実感があふれてきます。
今後も練習を重ねて皆さんと一緒に演奏会の舞台に乗せて頂く事を楽しみにしています。

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音にも色がある? (2011/10/12増川真澄)(←クリックしてください)

 増川真澄によるエッセーです。
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ホセ松岡の発声談義(←クリックしてください)

「ホセ松岡のホセは、三大テナーの一人ホセ・カレーラスから借用したもので、本名は茂雄です。(長嶋と一緒ですね。年も同じ74)T1のパートリーダーをここ 数十年仰せ使っています。学生時代、フェルッチョ・タリアビーニの生演奏を聴き、またジュゼッペ・ステファーノのカンツォーネLPにしびれ、未だにテナー らしい甘い歌声を得たいものと苦労しています。自分としては、本当はドイツリートに向いたハイバリトンのようにも思え、不遜にもシューマンの≪詩人の恋≫ をメインに据えたデュオコンサートを、同窓の田中清三郎氏のピアノで2008年に開きました。この歌曲もフィッシャー・ディースカウをイエルク・デームス の伴奏で生を聴いてしびれたのです。しかも京都会館の中央カブリツキで!いろいろ悩みっぱなしの発声ですが、多くの演奏家の歌唱に触れ、先生方に学び、理 解できた(かならずしも実現できていると自賛する積もりはありません)「響く声」獲得のコツをご披露してみます。諸兄のご参考になれば幸いです。

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ヴァチカンで日本のミサを歌う  増川真澄(←クリックしてください)

 去る4月28日から5月5日までローマに行ってきました。 目的はヴァチカンのサンピエトロ大寺院、アッシジの聖フランチェスコ教会のミサでミサ曲を歌 い、ローマの聖チェチーリア音楽院ホールで演奏会を行うためです。 この時の様子を3回に分けてご報告したいと思います。


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「ムッシュウ河原のワインを取りまくお話」(←クリックしてください)

  大阪ふれあい港館ワインミュージアム作りに思いがけず足を踏み込み、 フランス中のワイン産地、ワイン博物館、ワイン組合、ワイナリー騎士団の人たちとの付 き合いを通して得たワイン及びワインをとりまく話をフランスを中心にユニークな視点で展開します。いわく「ワインの向こうに文化が見える」。

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ギャラリー<まっさん>(←クリックしてください)

 外国、とくにヨーロッパに行くと、街中といわず田舎といわず、家々の窓邊には美しい花が飾られています。1995年、還暦の記念に家族でフランスのコー ト・ダ・ジュール、プロヴァンス地方を2週間かけて、気ままに旅行してきました。真っ青な空に赤い屋根、白い壁、花や木々の美しさにすっかり魅了され、そ れが私の油絵を始めるきっかけになりました。以来15年、風景画や静物画と共に、いろいろな形や色の窓辺に飾られた花々を私のアートライフのメインにし て、すでに60数点のこのシリーズを描きました。このギャラリー<まっさん>の「窓辺の「花」コーナーでは、それらの作品の中から少しずつご披露していき たいと思っております。皆様の忌憚のないご批評とともに、皆様と一緒に旅した演奏旅行の思い出にしていただければ幸いです。

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