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ヴァチカンで日本のミサを歌う


            増川真澄

 去る4月28日から5月5日までローマに行ってきました。目的はヴァチカンのサンピエト ロ大寺院、アッシジの聖フランチェスコ教会のミサでミサ曲を歌い、ローマの聖チェチーリア音楽院ホールで演奏会を行うためです。この時の様子を3回に分け てご報告したいと思います。

 第1回 サンピエトロ大寺院でのミサに聖歌隊として参加(←クリックすると記事に ジャンプします)
 第2回  アッシジの聖フランシスコ聖堂でミサを挙げる(←クリックすると記事にジャンプします)
 第3回 聖チェチーリア音楽院でのコンサート・打ち上げ(←クリックすると記事にジャンプします)

 第1回 サンピエ トロ大寺院でのミサに聖歌隊として参加
 ヴァチカンのサンピエトロ大寺院は、ご承知の通りカトリック教の総本山、ローマ法王がおられる所です。
ですが、ここでミサを挙げ、あるいはコンサートを開くことは、一定の要件を充たせば不可能なことではありません。大寺院側、及び私達のスケジュールの関係 で実現しませんでしたが、私達もミサの後ここでコンサートを開く計画をしていました。大阪ゲヴァントも何年か前ここで歌われた、と聞いています。この秋に は東京のある合唱団が大寺院でコンサートを開くやに聞いてます。私達が参加したミサの直前にも、どこかの団体がミサを挙げ、最後にカヴァレリア・ルスチ カーナのあの有名な間奏曲に歌詞をつけて歌っていました。
 私達がここで歌うことになったのは、ミサを挙げるためでもなく、コンサートのためでもなく、大寺院が主宰するミサに聖歌隊として式次第に参加をするため です。私達が参加したミサは、大寺院の中央祭壇で催される日曜礼拝の“荘厳ミサ”(ハイミサともいいます)で、全枢機卿が出席される、カトリック信徒十億 人にとって最も神聖視される儀式で、法王が臨席されるミサに次ぐ格式の高いものです。
 このような栄誉を担うことになったのは、約2年前、「日本のミサ曲を日本人の手で日本語で歌えないか」という東海メールクワイアーからの打診に、高田三 郎と親交があったローマ在住のガブリエル・ブドロー神父が奔走し、いろいろな検討と周到な準備の上で実現したものです。
 さて、先ほど「日本のミサ曲」ということを書きました。「日本のミサ曲とはなに?」 「日本にもミサ曲はあるの?」とお思いになる方がおられると思いま すので、そのことについて少し触れてみたいと思います。典礼、とりわけミサはカトリック教会の生命活動の源であり、基本的にはラテン語で行われることが通 例です。しかし、1962年〜1965年にかけておこなわれた「第Uヴァチカン公会議」において、ラテン語のみに限られていた典礼を、各国の言葉で捧げる 道が開かれました。「神のことばを母国語によってより深く味わい、神のことばに立ち返る」、これが典礼の国語化の目的でした。
 この公会議の決定をうけて、日本でも日本語による新しい聖歌を作ることになりました。その白羽の矢がたったのが敬虔なカトリック信者であった高田三郎― 「水のいのち」や「心の四季」など私達も歌ったことがありますよねーです。高田三郎は典礼委員会音楽専門委員として、当初から国語化に深くかかわり、歌詞 として詩編を重点的に採用することにしましたが、作曲の可能性を綿密に検討し、さらにそこに日本古来の音楽の伝統を甦らせ、クリスマスのためのミサ、死者 を弔うミサ、平和を祈るミサ等々、またそれぞれにKYRIE,GLORIA、CREDO、UBI CARITAS等々、次々に作曲を重ねその数は220曲に及んでいます。これらがいわゆる「日本のミサ曲」といわれるものです。その中から典礼だけでなく 演奏会でも歌うことができるように編纂・編曲されたのが、混声合唱用の「やまとのささげうた」であり、男声合唱用の「男声合唱のための典礼聖歌集」です。 この度のヴァチカン、アッシジのミサではこの二つの曲集の中から取り上げて歌いました。
 この日本のミサ曲「典礼聖歌」は、「TENREI-SEIKA」として日本を代表する宗教音楽として世界中に知られつつあります。当然このことはヴァチ カンでも十分認知されており、1992年1月 時のローマ教皇から高田三郎に「聖シルベストロ騎士団長勲章」が授与されました。また、高田三郎の「典礼聖 歌」などの宗教音楽作品および資料の全ては、ヴァチカンの資料館に収蔵・保存されています。
 以上のような経緯もあって、今回の典礼聖歌によるミサ挙行が行われた次第です。カトリックの総本山の“荘厳ミサ”が日本の合唱団に開放され、日本語のミ サ曲が歌われたのはサンピエトロ大寺院にとっても、また日本の合唱界にとっても、歴史にきざまれる画期的なことでした。
 ミサのお話に入る前に、もう一つ、今回ローマに行ったのはどういう合唱団だったのか、何故私のような不信心な者がミサに参加したのか、ご説明しておきま しょう。今回の2回のミサ、1回のコンサートは(コンサートにおける東海メールクワイアー、アンサンブル エヴォリュエの単独演奏を除いて)全て須賀敬一先生が指揮をされました。須賀先生は、ご存知の通り豊中混声合唱団の名誉指揮者をはじめ、東海メールクワイ アー、大阪メールクワイアーその他沢山の合唱団の指揮をされている、日本合唱界の重鎮です。その須賀先生は、高田三郎とは30年余の交遊(須賀先生に言わ せれば“交遊”ではなく、あくまでも私は高田三郎の弟子だ、と仰っていますが・・・)があり、現在高田音楽の最大最高の理解者、継承者とされています。そ のため全国の合唱団からの招聘により、高田三郎の合唱曲を客演指揮されることが多いのですが、特に男声の典礼聖歌は「典礼聖歌こそ日本人の魂の歌、そして その男声版は日本の男声合唱の新しく貴重なレパートリーだ。これを定着させることこそ我々の務めではないか」との強い信念のもと、指揮・須賀敬一、オルガ ン・木島美紗子、合唱・東海メールクワイアーの組み合わせで全国を回り、典礼聖歌の普及に力をいれてこられました。
 この度ローマに行くについては、こういった高田音楽で結ばれた多くの合唱団に参加を呼びかけられ、これに応えて全国から19の合唱団(個人の資格で参加 された方の所属合唱団を加えれば20以上の合唱団)から男声73名、女声53名が集まり、高田典礼聖歌男声合唱団、「平和の祈り」合唱団(混声)が編成さ れました(旅行参加者はこの外指揮者、オルガニスト等4名、随行者19名)。私が入っていますアンサンブル・エヴォリュエでは、昨年の第5回定期演奏会で 須賀先生を客演指揮者にお迎えし、混声版の典礼聖歌を演奏しました。また私達合唱団の指揮者・飯沼京子先生が須賀先生と懇意にされている関係から、団とし て今回のローマ行きに参加することになり、私もメンバーの一人として参加することになったものです。
 参加者は昨年8月廣島で、本年3月大阪(箕面)で、4月には兵庫(伊丹)で合同合宿練習をおこなったほか、各地区ごとに月1〜2回の練習会を設け練習を 重ねてきました。
 (参加された合唱団)
    東海メールクワイアー(名古屋)   アンサンブル エヴォリュエ(大阪)
    女声アンサンブル アトリエ(大阪)  やまびこ男声合唱団(岡谷)
    市川男声合唱団(千葉)        新居浜混声合唱団(新居浜)
    豊中混声合唱団(大阪)        女声合唱団ヴェルフィーヌ(大阪)
    泉ヶ丘混声合唱団(岐阜)       所沢メンネルコール(所沢)
    南蛮コール(長崎)            いそべとし記念男声合唱団(東京)
    米子第九合唱団(米子)        日本男声合唱協会(東京)
    京都エコー(京都)            東海フィメール(名古屋)
    四ツ橋筋中年合唱隊(大阪)      元寺小路教会(仙台)
    フルトン男声合唱団(長崎)
                 
 ミサは午前10時、主祭壇で開式されました。開式に先立ち、私達「高田典礼聖歌男声合唱団」(以下TTDGといいます)は聖歌隊席につきました。大寺院 が主宰するミサでは慣例に従い、ミサの式次第に参加できるのは男性に限られています。従って聖歌隊として参加できるのは男声(TTDG)だけです。同行の 混声合唱団の女声は、一般会衆とともに会衆席でミサの進行を見守るだけです。
 サンピエトロ大寺院の聖歌隊席は祭壇上ではなく、主祭壇に向かって左側、主祭壇の少し手前、オルガン席を取り囲むようにしてあります。聖歌隊席は25名 ほどしか着席するスペースはありません。私たちは総勢73名、全員が聖歌隊席には座れませんので、今回特別にオルガン席の左右に聖歌隊席を設け、テナー・ パート、ベース・パート左右にわかれて着席しました。
 まずTTDGが歌う入祭の歌「天は神の栄光を語り」によって、枢機卿はじめ燭台を捧げた司祭など入祭の行列が主祭壇に上がり、着席して式が始まります。  その後は司祭と会衆がラテン語で節をつけた言葉を交わしながら、大寺院専属のジュリア聖歌隊とTTDGの交唱によるグレゴリア聖歌と、TTDGによる典 礼聖歌を交互に歌う、というかたちでミサは進められました。ジュリア聖歌隊は1500年台に創設され、かってパレストリーナも所属していたという伝統のあ る聖歌隊です。メンバーは12名、もちろん全員男性で、ノン・ビブラで伸びのあるとても透明感のある声でした。
 TTDGは出発前、事前に当日歌うグレゴリア聖歌の楽譜を送っていただいて練習したほか、前日ホテルに聖歌隊の楽長・指揮者であるポール神父を迎えて練 習をしました。当初、送られてきた楽譜はネウマ譜(四線で小節線がなく四角い音符の)でしたが、これをマスターする時間的余裕が無かったので五線譜に書き 直して歌いました。
 ミサはGLORIA、CREDO、AGNUS DEI・・・と進み、聖体拝領―キリストの血と肉を現すワインとパンを頂くミサのクライマックスになりました。信者にとって最も緊張し最も感動を覚える一 瞬です。実際、この時には頬を紅潮させ、涙を流す信者さんもおられます。
 TTDGの歌う「谷川の水をもとめて」「ちいさなひとびとの」の中を、信者の方々が一人ずつ祭壇の前に進み出て、司祭からパンを拝領します。聖体拝領が 終わると、「閉祭の挨拶」とともに、TTDGの歌う「行け地の果てまで」にのって順次会衆は退席される、はずだったのですが、誰一人立とうとはされませ ん。私達は会衆の皆さんがほぼ退席されてしまうまで歌い続ける手はずになっていたのですが・・・。やむを得ず楽長のポール神父の合図でキリのいいところで 歌うのをやめたのですが、今度は会衆席の会衆はいうにおよばず、大聖堂のつめかけた観光客を含む多くの人達の間から大きな拍手が沸き起こり、その拍手がい つまでも鳴り止まないのです。いわばアンコールのようになり、急遽ポール神父の指示でもう一度「行け地の果てまで」を歌いました。
 このアンコールが終わってもまだ拍手鳴りやまず、これ以上歌うことは大聖堂や私たちのスケジュールに影響が出るため、私達のほうが退席をはじめました。 すると、口々に“ブラボー”“ワンダフル”“グラーチェ”などと声をかけてこられ、あるいは握手を求めて大勢の方が聖歌隊席に集まってこられました。また 私達が大寺院の外に出るまで拍手は続きました。私はベースの一番左端にいたのですが、退出される途中の修道尼の方が「(これ)イタリアン・・!」といっ て、当日会衆に配られた、イタリア語の式次第を下さいました。
この日の夜、市内のレストランで打上げがあり、楽長のポール神父も出席されましたが、ポール神父からは、「ミサが終わっても拍手がやまず、一瞬どうしよう か、と思った。なにせミサで拍手が起こる、ということ自体初めてのことだったし・・・。ましてアンコールなどとは・・・。素晴らしい歌唱ミサになった」と いう感想を述べられました。また「日頃は辛口の枢機卿からも“すばらしいミサだった”“拍手が起こるなんて前代未聞だな”と大変喜んでおられた」とのお言 葉が紹介されました。因みに、今日のミサには、私達の席からは判りませんでしたが、数千人の方々が参会されたということです。
 ミサが進み、聖体拝領の頃になると堂内は一種独特の雰囲気につつまれ、お香の煙や私達が歌う聖歌がはるか天井のクーポラに吸い込まれていくと、私のよう な不信心で、どちらかというとクールな私の心までが、昇華していくような不思議な気分におおわれ、感激と感動に少しウルルとしてきました。宗教の持つ力、 音楽の持つ力、そしてこの二つが合体したとき、人間の心にどんなに強いインパクトを与えるのか、改めて強く感じた次第です。
(打上のことはまた次回にお話します)

 第2回 アッシ ジの聖フランチェスコ聖堂でミサを挙げる
 ヴァチカンでの“荘厳ミサ”参加に先立ち、前日の5月1日、アッシジの「聖フランチェスコ聖堂」で「世界平和を祈るミサ」を挙げました。この聖フラン チェスコ聖堂には、谷村さんという日本人の神父さんがおられます。私達がヴァチカンでミサに参加することを聞きつけられた谷村神父が“はるばるローマにこ られるのでしたら、ぜひ聖フランチェスコ聖堂に来てミサを挙げてほしい”との強い要望があり、実現したものです。そして、日本のカトリック教会でもこの申 し出にご賛同下さり、大阪教区の池長大司教さんも私達と同行してくださることになりました。
 アッシジは、ご存知の方も多いと思いますが、ローマから北へバスで3時間ほど走ったところ、スバズィオ山の斜面に沿って造られた街です。12世紀に「清 貧の聖人」といわれた聖フランチェスコが生まれた場所として世界中に知られ、カトリック教徒の聖地巡礼の地として世界中から巡礼者や観光客が訪れるところ です。その聖フランチェスコ(これはその後、サンフランシスコの語源となりました)を祀った聖フランチェスコ聖堂は、アッシジの丘の中腹にあります。麓か ら見ますと、聖堂前の広場や聖堂を支えるアーチが整然と並び、アッシジの象徴ともなっています。
 花と緑に囲まれた自然いっぱいのレストランで、アッシジの名物“塩ぬきのパン”を食べました。なぜ塩抜きのパンがアッシジの名物なのか聞き漏らしました が、少し塩味の効き過ぎたスープに浸して食べると丁度いい味になって、とても美味しかったです。
 聖堂の少し麓のほうにあるバスの駐車場から、狭い町の中を通り抜けますと、突然視界が開け、おおきな広々とした聖堂前の広場がありました。その大広場の 緩やかな坂の向こうには堂々とした白亜の聖堂、聖フランチェスコ聖堂が聳え立っていました。聖フランチェスコ聖堂は、上部聖堂と下部聖堂の二層になった珍 しい構造をしています。聖フランシスコが亡くなった2年後の1228年にまず下部聖堂がロマネスク・ゴシック様式で、続いてその上、地上部分に上部聖堂が ゴシック様式で建てられました。私達のミサは旧いほうの下部聖堂で行われました。上部聖堂が高い天井と窓からの光に満ちた明るく開放的なのに対し、地下を くりぬいて造られた下部聖堂は、天井が低くて薄暗く、冷たく厳しい印象を受けました。しかし、主祭壇の上部、周囲といわず、堂内の左右の壁、天井には ジョットとその弟子、チマブーエ、シモーネ・マルティーニ、P・ロレンツェッティなどによるフレスコ画がびっしりと描かれ、さながら地下美術館といった感 じでした。
 ここでのミサは、私達が捧げるミサですので、男女合唱団員、同伴者合わせて170名全員が参加しました。池長大司教の司祭で「〜あらゆる兵器の所有・製 造の廃止、和解と連帯による紛争解決、貧困、抑圧、差別の排除、地球環境の保護〜」などを祈りのテーマとしてミサは進められました。
 式次第は基本的にはヴァチカンでのミサと同じですが、ヴァチカンではジュリア聖歌隊とTTDGが歌ったグレゴリア聖歌の部分を男声合唱の「典礼聖歌」の 中から、KYRIE、GLORIA・・・の部分を混声合唱の「やまとのささげうた」の中から、いずれも須賀先生の指揮で歌い、ミサは終わりました。 天 井、壁面いっぱいに描かれたフレスコ画に囲まれたミサは、ミサの言葉と音楽と宗教画の渦の中で、どこか現実世界から隔離された不思議な感覚に包まれた一時 でした。
 この下部聖堂のさらに地下には、聖フランチェスコの遺骸が安置されている地下礼拝室があります。非常に狭い空間で、巡礼者たちも立ち止まることが許され ないことになっていますが、当聖堂の特別の計らいで聖フランチェスコの納骨堂をグルリと取り囲み「平和の祈り」を全員で合唱しました。須賀先生も団員一同 も、一つ役目を成し遂げたという満足感に満ちた晴れ晴れとした表情に溢れていました。
 下部聖堂を出て階段を上がり、上部聖堂前の広場に出ますと、眼下にはウンブリアの緑溢れる広大な平野が広がり、とても素晴らしい景色でした。聖堂からバ スの駐車場に至るアッシジの町は、中世の家々とその跡に建てられた館が左右に並び、丁度5月初めから始まるアッシジ最大のお祭り<カレンディマッジョ>の ための飾りつけ、色とりどりの旗が家々に掲げられ、まさしく中世の町そのものの雰囲気に包まれていました。

ミサ風景 ミサ中は写真撮影禁止 特別取材許可者が
限られた行動範囲の中で苦労して撮影したもの

      聖フランチェスコ聖堂の主祭壇

 アッシジの中腹から見た聖堂
 上部聖堂と鐘楼

 聖 堂前の広場その1

 聖 堂前の広場その2
 カ レンディマッジョを迎える町の賑わい

       カレンディマッジョ(アッシジ最大の祭り)を迎える町の風景


 第3回 聖チェ チーリア音楽院でのコンサート・打ち上げ
 5月2日、サンピエトロ聖堂でのミサの後、午後聖チェチーリア音楽院のホールで演奏会を開きました。
今回のローマ行きは、サンピエトロ聖堂でのミサ参加、アッシジの聖フランチェスコ聖堂でのミサ挙行が目的でした。しかし、折角ローマに行くのに2回のミサ だけで終わるのはあまりにも勿体ない、どこかでコンサートを開きたい、との強い思いからいろいろ計画を練っていたところ、サンピエトロ聖堂のジュリア聖歌 隊の楽長・パウロ神父をはじめ、多くの方々のご尽力により、あの有名な聖チェチーリア音楽院ホールで演奏会が開けるという、夢のような形で、実現の運びと なりました。
 聖チェチーリア音楽院は、同音楽院管弦楽団・合唱団の名前で皆さんよくご存知でしょう。イタリアで最も卓越した音楽学校は、プッチーニ、マスカーニ、ク ラウディオ・アヴァド、リッカルド・ムーティなどを輩出した国立ヴェルディ音楽院(創立1808年)とされています。 しかし、ここ聖チェチーリア音楽院 は、1585年にローマ教皇シクストゥス5世により、聖女セシリアと教皇グレゴリウス1世を記念して教皇領に創設された音楽教習所を前身としており、実に 425年の歴史がある、イタリアどころか現存する世界で最も旧い音楽学校となっています。 ローマ市内外どこでも目につく、幹の上の方にしか枝や葉がない 独特の形をした「ローマの松」、この「ローマの松」をテーマに作曲したかの有名なレスピーギも、この音楽院の教授と院長を歴任しました。 また1952年 に結成された「イ・ムジチ合奏団」は、この音楽院の卒業生12名によって構成され、世界のバロック音楽界における最も名高いオーケストラであることもご存 知の通りです。
 この由緒ある音楽院がローマの、どういう所にあるのかなあ・・・、と期待に胸をはずませて訪れた場所は、なんとローマの繁華街の一つ、商店やレストラン などが立ち並ぶコルソ通りに面して立っていました。しかも、これがあの有名な音楽院?というほど古ぼけた一見汚らしい建物でした。 もっとも、ローマの、 特に旧市街は街全体が歴史遺産に指定されているため、外装・外観には一切手を加えることができないとか。従って有名な美術館を初め官庁、企業、レストラン などその多くがみな「ウソッ!これが・・・?」というほど汚らしく旧い建物なのです。
 聖チェチーリア音楽院の入口は、そのコルソ通りからさらに細い路地をはいった所にあり、その大きさも、そうですね産業創造館のB練習室の入口ほどの狭い 小さなものでした。 ただ、嬉しいことに、コルソ通りに面した建物の壁面と、音楽院の入口の直ぐ横の掲示板には、私達のコンサートのポスターが日本語とイ タリア語の両方で貼ってありました。 狭い入口を入るとすぐに広い内庭があり、それを取り囲む1階の回廊だけが総ガラス張りの近代的な装いに改装されてい ました。が2階以上は昔の旧いままの姿でした。 ホールはその内庭に面した一角にありました。3階分はあろうかと思われる吹き抜けの高い天井、正面にはパ イプオルガン据えられ、いよいよここで歌えるのだなあ、と思うと胸が高鳴ってきました。
 ところが、ここで日本とイタリア、関西人とローマ人の気質の違い、大げさに言えば文化摩擦が待ち受けていました。 私達のコンサートのスケジュールは、 2時〜4時 ステ・リハ、4時40分コンサート開始、と言う段取りになっていましたので、時間通り2時少しまえにホール入りをしました。 丁度私達の前に どこかのグループがステージで練習をしていたらしく、その後片付けをしていましたが、それが中々終わらず、しかも約束の時間が過ぎているのに、のんびりと 悠揚迫らずのんびりしたものです。リハ時間はどんどん過ぎていくし、ピアニストとオルガニストは片づけ中のステージに上がりこんでそれぞれリハを始めまし た。われわれ合唱団員も時間を気にしながら客席で舞台が空くのをイライラしながら待っていました。 その内に今回のツアーの実質的な責任者である某合唱団 のT会長が「あいつらをすぐ引きずり降ろせ・・・!」と怒鳴りだす始末。 やっとステージが空いて、やれやれと合唱団員一同ステージに上がったら、今度は 山台がまだセットされておらず、それから電気ドリルや金槌でトンカチ山台造りが始まるという、国民性とはいえなんとも時間の観念の乏しいこと。
 そんなこんなで、結局ステリハが始まったのは予定より1時間遅れ。参加各合唱団は昨年夏の廣島や名古屋、大阪、兵庫での合同練習や各地域、各団ごとの練 習を重ねてきましたが、各ステージとも全員が揃って歌うのはこのステ・リハが初めて、という状態でしたので、とにかく本番までには全プログラムを一通り 歌っておかなければ、と本当に大忙しのステ・リハでした。 私が入っております“アンサンブル エヴォリュエ”は、東海メールクワイアーと共に単独ステージを持つという栄誉ある機会を与えられました。 このツアーに参加したエヴォリュエのメンバー は、特別参加者を含めて23名(S7、A6、T6、B4)、平素の三分の一の小人数でした。日頃こういった小編成でのアンサンブルをやる機会なく、しかも 殆ど全員が社会人のため、全員揃っての日本での事前練習ができないまま、しかも未知のホールで歌うという不安をかかえてのローマ入りでした。 案の定前日 のホテルでの練習では全く声が合わず、“音の低い人がいる。何べん言っても直らない。自分で低いと思ったら声をだすな!”と厳しい叱責の言葉が指揮者から 飛び出す始末。あてにしていたステ・リハも時間の切迫で、殆ど声出しと並びと響きの確認だけに終わり、各曲のサワリの部分だけ少し歌っただけでした。 し かし、思ったよりもホールの響きが良く、うまく私達のハーモニーをサポートしてくれたので、本番は落ち着いて日頃の成果を十分に発揮することができ、満足 感と充実感を味わうことができました。 演奏後、須賀先生や他の方々から“エヴォリュエ、とても良かったよ”と声をかけていただきました。 今回のツアー で須賀先生のサポートととしてパート練習や全体練習をしていただいたT合唱団のS団内指揮者、いつも辛口で滅多に褒めることがないのに、“エヴォリュエの ベース、いいねえ”とお褒めの言葉を頂き、ホッとしました。
 このコンサートの最後を飾る高田三郎の「水のいのち」と「平和の祈り」は、まさに今回のツアーの集大成ともいえる素晴らしい演奏でした。130人の大合 唱にもかかわらず、緊張感と静謐に満ちたPやPP、極めて精度の高いディナミークやアルゴギーク、それらに裏打ちされた情感豊かな演奏でした。 私は過去 に「水のいのち」を男声で2回、混声で2回歌ったことがありますが、これほど完成度の高い「水のいのち」を歌ったのは初めてです。さすが高田三郎音楽の継 承者である須賀先生の情熱的でかつ緻密、そして厳しい練習の賜物と思います。この合唱団で、ローマまできて歌った甲斐がありました。 演奏が終ってもアン コールの拍手が鳴り止まなかったのですが、ホール使用の時間が切迫していたため、アンコールに応えての演奏は残念ながら出来ませんでした。 拍手は私達が ホールを出るまでやまず、ロビーでは多くの日本人、外国人の方々からブラボー、賛辞を頂きました。 ご自身も合唱団で歌っているというフランス人女性の大 学教授から「(皆さんは)世界中を演奏ツアーしている有名な合唱団ですか? アマチュアですって・・? 信じられない!」と目を丸くして手を叩いておられ ました。 また、ローマ在住の声楽家・松本康子氏は「高田の代表作である「水のいのち」は渾身の演奏だった」と評して下さいました。 最後にご参考までの 今日のコンサートのプログラムを簡単に書いておきます。

   T・「平和の祈り」合唱団 指揮・須賀敬一 オルガン・木島美紗子
       高田三郎 ミサ曲「やまとのささげうた」
   U・アンサンブル エヴォリュエ 指揮・飯沼京子 オルガン・木島美紗子
       MOZART AVE VERUM CORPUS
       高田三郎 今日こそ神が造られた日
       滝廉太郎 荒城の月
       O.GJEILO UBI CARITAS
       BACH   カンタータ147番「主よ、人の望みの喜びよ」
   V・高田典礼聖歌男声合唱団 指揮・須賀敬一 オルガン・木島美紗子
       男声典礼聖歌集より
   W・東海メールクワイアー 指揮・鈴木 順 ピアノ・津野有紀
       高田三郎 男声合唱組曲「残照」より
   X・「平和の祈り」合唱団 指揮・須賀敬一 ピアノ、オルガン・木島美紗子
                        ピアノ・木村恵美子
       高田三郎 「水のいのち」
       高田三郎 典礼聖歌「平和の祈り」−アッシジの聖フランチェスコによる 
 
         
                打 上 げ         

 アッシジでのミサ、ヴァチカンでのミサ、そして聖チェチーリア音楽院でのコンサートと公式行事が終わった5月2日夜、打上会を行いました。 翌日からは 各地域、または各合唱団ごとの自由行動となり、全員が一同に会するのは今夜が最後になるからです。 場所は、カンツオーネとオペラ・アリアのライブ演奏で 有名な<CASA NOVA>で行われました。ここは、ローマを訪れた観光客が必ずといってもいいほど立ち寄る有名なレストランです。 東洋人(日本人?)らしいソプ ラノと、外国人のテナーが交互に、あるいはデュエットでカンツオーネやオペラのアリアを歌ってくれました。この二人の名唱が観光客の人気を呼ぶのでしょう ね。
 しかし、今夜は客が悪かったですね。とに角、皆三度のメシよりも歌うことが好きな連中ばかりです。「まず最初に皆様のご来場を歓迎し“乾杯の歌”を歌い ます」とヴェルディの椿姫から乾杯の歌を歌いだしたのですが、たちまち我らメンバーによる大合唱が沸き起こり、以後彼、彼女が歌うたびにハーモニーの渦が ホールいっぱいに充満して、彼、彼女の声など全く聞こえない始末。彼・彼女らもさぞかし歌いにくかったでしょうね。 大病をおして指揮を続けてくださった 須賀先生も上機嫌、「天国の高田先生なら例の口調でこう言うだろう、“よかったぞ、ばかやろう!”と」
 打上にはヴァチカンのジュリア聖歌隊の楽長ポウル神父や、今回のツアーの労をとって下さった、高田三郎と親交のあったブドロー神父も駆けつけて下さいま した。 ポウル神父は飛び入りでピアノの弾き歌いで美声を披露、それも世俗曲であるナポリ民謡なポピュラーソングを歌って下さり、今日のミサ中にみられた 謹厳実直な聖職者とは思えぬくだけた一面も見せて下さいました。 打上がすすみ興がのってくると、いろいろな合唱団の自称“喉自慢”がステージに上がりこ み、プロの彼・彼女をおしのけてカンツオーネやオペラのアリアを歌いだす有様。これこそ正に“ステージ・ジャック”。 どこの合唱団にも必ずこういった “歌いたがり屋”“目立ちたがり屋”がいるものですね(笑)
 (余談)帰国、関空で到着荷物を待っている時、須賀先生が私の横にこられて、「(今度の演奏旅行)本当に良かったネ」としみじみと仰られました。 私が 「お蔭様で本当に有意義な旅行をさせて頂きました。冥土への良い土産ができました」と言いましたら、先生曰く「それを言うなよ・・・」 
  音楽院の入口 とても狭い
  中庭を取り囲む廊下 ホールはこの左側にある
  アンサンブル エヴォリュエの単独ステージ
  「平和の祈り」合唱団による「水のいのち」のステージ
   フィレンツエのレストランの前で、須賀先生と
   神戸大学グリーの大先輩・塩田保氏(東海メールクワイアー)(中央)と

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