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医学博士大谷遷の健康指南




明治期の大阪の医師 大谷謙斎 (2011年8 月31日)

 18年前に発行された日本医師会編集の「医界風土記」近畿篇に曽祖父のことが記載 されている。これは、当時、日生病院の皮膚科の部長をしておられた、長門谷洋治先生が書かれたものである。
 昭和57年7月5日発行の日医ニュースに、「医界風土記」270で載っている。
10年一昔という事もあるので、身内の事で恐縮だが、ご存知の無い先生方も居られると思うので、改めて、紹介させて貰うことにした。
 
先般、大阪市西区でご開業の大谷遷氏宅から「大日本医会大阪地方部会員氏名表」(明治26年7月11日調)なる1枚ものが出てきたという話をきいた。そこ には同氏の曽祖父・大谷謙斎など231名(うち市部208、郡部23名)の姓名が並んでおり、中に緒方惟準、緒方拙斎、吉田顕三、清野勇、高安道純、松尾 耕三、山田俊郷、薄怒一ら当時またはのちの大阪リーダーたちの名がみえる。
大日本医会は、この明治26年3月に池田謙斎らによって東京で創始されたばかり。当時すでに大谷謙斎は50歳、西区京町堀で名の通った開業医として安定し た生活を送っていた。
大谷謙斎(1842〜1908)は鳥取県の出身、名古屋の塚田謙堂につき儒学を修めた後、大阪医学校に学んだ。オランダ人教師エルメレンスを尊敬し、明治 3年12月5日2時に行われた新講堂竣工に際してのエルメレンスの講演を『開校記』と題して謹厳な文字で浄書筆記した小冊がある。同7年、エルメレンスの 一時帰国時、自筆の『日講紀聞』中に送別の漢詩を記し、さらに同12年、彼の死が伝えられると、記念碑設立の議がおこり、謙斎も率先これに参加、同14年 除幕に至った。今も阪大医学部前にある(現在は千里に移っている)この碑面に謙斎の名を見ることが出来る。
これより先、明治9年に内務郷大久保利通になる「内外科医開業免許候事」という免状を得、医籍登録番号は7番であった。西南戦争の一時期、大阪の陸軍臨時 病院の傭医となったほかは明治22年まで大阪医学校・病院に勤め、辞任近くの頃は年俸600円とかなりの給与を得ており、退職時の慰労金が150円であっ た。彼の辞任に先立って学校長・院長の吉田顕三もこれを辞し、高麗橋に吉田病院を創った。同院開院と同時に謙斎も同院に勤めたが、まもなく勤務のかたわら 自宅診療も行うようになった。吉田に私淑し、明治33年、吉田が衆議院議員に当選時にはお祝いの短歌を献じた。
明治24年、大津事件(ロシア皇太子が大津で遭難)には謙斎の養子・大谷多聞が吉田に従い、京都のトキワホテルに急行した。吉田と海軍との関係から依頼が あったものだが、別に政府の要請で東大のスクリバが西郷従道を同道、現地に飛んでいる。もっとも、吉田らが着いたときはすでにロシア側で対処ずみであっ た。
明治35年の謙斎の中ノ島税務署への「所得金高届」(現在の確定申告)が残っているが、医業に関する諸入費として薬種・500円、医薬機械・40円、薬 瓶・50円、薬局・診療所雇人給料・372円、同上食費・480円、人力車及付属品・43円余などで計支出は2,125円余。差引医業所得金・1,374 円余となっている。大きな所得である。上記多聞も医師として各方面で活躍をしたが、その子、つまり謙斎の孫には大阪市大教授となった大谷象平氏や、京大教 授になった大谷卓造氏があり、前出遷氏の父憲吉氏もまた医師であり、象平、卓造とは兄弟の関係にある。
大谷謙斎のサイン


大谷謙斎の実家は鳥取県東伯郡浦町浦安で「鷹勇」という銘酒を造っている、大谷酒造である。そちらにも墓があるが、高野山奥の院の御供所のすぐ前、有栖川 家の墓の後ろに、大谷多聞が謙斎のために建てた小さな墓がある。
奥の院へ行かれたときには、西区の医師の先輩の碑として思い出していただければ幸いです。


万歩計カンニング (2011年8月31日)

 健診で初めて来たKさん。
自営業でチョビ髭を生やして、一見、イカツイ感じのするオッサンである。
糖尿病が見つかった。食事・運動療法が 必要だ。
「運動はしてますか?」
「あまりしてませんが・・・」
「毎日、一万歩位歩くのを目標にして下さい」
「一万歩は歩いてまっせ。毎日、万歩計付けて、靱公園を30分位散歩してますから・・・」
「30分位ではとても一万歩はいきませんよ。地下鉄、御堂筋線の改札からここまで歩いても3000歩ありませんよ」
「そんなことおまへんで、一万歩位、すぐいきまっせ。嫁はんがうるさいから万歩計、犬に付けてますねん。うちの犬小さいから、一万歩くらいすぐ行きます わ」
「そんなカンニングしたらあきませんわ」
思わず、ふきだした。


丹波敬三と森鴎外 (2011年8月31日)

 丹波敬三は曾祖母・大谷通(みち)(大谷謙斎の妻)の兄である。
敬三の子に日本画家の丹波緑川(りょくせん)が居り、その子が丹波哲郎である。
従って、父・憲吉の祖母の兄になる。
敬三は、ドイツで裁判化学を学び、東大の薬学博士第1号で森鴎外と親交があった。
森鴎外のドイツ日記に敬三の事が載っている。

(編者注;文献コピー掲載は省略させていただきました)

文献のコピーを貼り付けたので、読みづらいかと思って、丹波敬三の出てくるところを翻訳してみました。

森鴎外 独逸日記
1885年1月
4日:丹波敬三と飯盛挺造が来た。我々は、萩原の所で日本食を造って食べた。

1886年11月
13日:丹波敬三はブダペストに居た。帰途に私のところに顔を出した。その日は土曜日だった、彼は我々をレオニーへの遠足に誘った。我々はスタルンベルヒ 迄汽車で一緒に行った。そこで、我々はそこで辻馬車を2台雇って湖を廻った。そして、レオニーへ行った。そこで、我々は少し酒を飲みすぎたが愉しかった。 我々は、またもやここで夜を過ごした。

14日:朝「レオニー旅館」で目覚めた。他の者は未だ皆眠っている。私は一杯のコーヒーを飲んで、ロットマンの丘の上の小さな寺院へ行った。そして、私 は、未だ見ていない夏の保養地へ行った。右手にはアルプスが広がっていた。そこは朝日が光って非常に美しかったので、私はそれを簡単な言葉で言い表せな かった。午後に、舟を頼んで帰った。他の者は午後も素晴らしい景色を享受するために留まった。丹波は船着場まで一緒に行った。彼は遠ざかって行く舟を見 送ってハンカチを振った。突然支えを失って水中に足を滑らした。幸いにもその場所の水は深くなかったので、それ以上傷つくことは無かった。

 


交通事故死2件 (2011年8月31日)

 ・7月1日(木)、ライオンズクラブの例会に出かけた折、道路情報の掲示に、阪神高速森小路出口、事故のため閉鎖と出て いた。私には関係が無いので気にも留めていなかった。
例会後、診療所に帰って午後の診療をしていると、2時過ぎに受付の者が「府警から電話です。」と言ってきた。
交通事故死の時は、大抵○○警察から電話です、と言って取り次いでくるのだが、府警からです、と言われたのは初めてだ。
「交通事故死があったので、死体検案お願いできませんでしょうか?こちらの警察医の先生に連絡がつきませんので・・・・・。現在ご遺体は関西医大滝井病院 にあるのですが、3時半頃にはこちらに帰ってこられますので。」
港警察の交通課からでなく、府警から依頼があるのも初めてだし、遺体が関西医大の滝井病院にあるのは何故だろう、と思いながら、
「うちは5時まで診療なので、5時過ぎてからにしてもらえませんか?」
開業医は木曜日を休診にしている所が多いので、警察医に連絡がつかない事があるらしい。以前、港警察や住之江警察から頼まれた時も、木曜日だったと思う。
「5時過ぎでも結構ですからお願いします。お迎えに上がりますから。」
「来る時にもう一度電話をしていただけますか?」
今日は明るい間に帰宅できると思っていたのに、また、遅くなりそうだ。
5時丁度に電話がかかってきた。
「今からお迎えに上がります。覆面で行きますから。」
クリーム色のセダンがとまった。大柄な男性が2人乗っている。内装はパトカーよりも高級だ。
午前9時15分に、阪神高速の森小路出口で右側に停車していた中型トラックに、ワゴン車が衝突して、運転手を関西医大滝井病院へ救急搬送したのだが、死亡 したとのことだ。
車はあみだ池筋を通って長堀通りに出て右折、そこの信号待ちで、神戸ナンバーの車が割り込んでくる。
「オイオイ、何をするんや。神戸ナンバーの車も最近はマナーが悪いですな。」
新なにわ筋を右に折れて阪神高速に乗った。私は港警察署へ行くものと思っていた。港警察署なら高速を使わなくてもいいのに、と思いながら座っていると、天 保山出口を出て右折、次をまた右折した所に高速道路機動隊の本部があった。これでやっと事情が飲み込めた。阪神高速道路の機動隊は府警本部の所属になって いて、事故が高速道路の出口の所だったので高速道路の機動隊の守備範囲になったようだ。もう少し先の出た所だったら、旭区の警察医の仕事になる。いずれに しても、木曜日は休診をされている所も多いので、警察医に連絡がつきにくいのだろう。こちらも何時助けてもらうことになるかもしれないので、お互い様だ。
車中の情報では、開放骨折ということだった。
霊安室に行った。31歳のがっちりした体格良い男性である。顔や頭部には全く損傷はない。左胸に心臓マッサージをするために切開して縫った傷跡がある。右 大腿部の略真ん中辺に直径1.5cm位の穴が開いていて、右下肢が10cm位短い。死因は、右大腿骨を骨折した際に大腿動脈を損傷して、そこからの失血に よるものと思われた。
「かなり出血していたでしょう?」
「ええ、その辺りに大分ひどく出血した跡が残っていました。」
亡くなったのは大柄な男性なので、背中の方の損傷の有無を確認するために、遺体の左側を持ち上げるのに、180cm以上もある大柄の警察官が3人がかりで ある。遺体を右側臥位にすると、大腿部の穴から血液が流れてきた。
部屋に帰って事故の状況の書類をコピーして貰うために待っていると、遺族の方だといって父親と弟が来られた。神戸在住の方だった。弟は外科医だと言ってい た。死体検案書は翌朝10時に診療所の方へ取りに来てもらうことにして外に出てくると、これから出勤するパトカーが出てきたので、診療所までそのパトカー で送ってもらった。
早く帰れると思っていたのに、帰宅は7時半になってしまった。

・7月24日(土)診療所の床掃除に業者が入っていた。夕方、西沢教授が大阪市立大学の学長・理事長に就任されたので祝賀会があったので、1時に診療を終 えて昼食を取った後、休憩していた。2時半頃に西警察から電話があった。留置場の保護室収容の事かなと思って受話器を取ると西警察の交通課からだと言う。
「交通事故死が発生しましたので、検案をお願いできませんか?事故後すぐに市大の救命救急センターに搬送したのですが駄目だったので・・・・ご遺体は4時 頃こちらに帰ってまいりますので。」
祝賀会まで2時間ばかり時間があるので引き受けることにした。4時過ぎに迎えに来てくれた。
警察の前は丁度遺体が帰ってきたところで、パトカーやワゴン車が3台くらい停まっていた。遺体が霊安室に運ばれてから検案に行ったが、70歳の女性で、後 頭部に裂傷があり、出血して骨まで見えていたがその部分の骨折は無く、頚椎及び頭蓋底骨折と骨盤骨折で、略、即死状態だったと思われた。
翌日、日曜日だったが10時に死体検案書を取りに来てもらった。

2件とも、事故の数分前まではこんな事で自分が死ぬなんて事は考えてなかっただろうと思うと、複雑な気持ちになる。

御茶屋には糖尿病は居ませんでー (2010年 1月16日)
 昨年の朝日新聞に緑茶7杯→血糖値改善という記事が載っていましたので引用します。
緑茶を1日に7杯分ほど飲むことで、糖尿病になりかかっている人たちの血糖値が改善することが、静岡県立大などの研究でわかった。健康な人で緑茶をよく飲 んでいると糖尿病になりにくいという報告はあるが、高血糖の人たちの値が下がることを確認した報告は珍しいという。
血糖値が高めで、糖尿病と診断される手前の「境界型」などに該当する会社員ら60人に協力してもらった。緑茶に含まれる渋み成分のカテキンの摂取量を一定 にするため、いったんいれたお茶を乾燥させるなどして実験用の粉末を作製。これを毎日、湯に溶かして飲むグループと、飲まないグループに無作為に分け、 2ヵ月後の血糖を比べた。
平均的な血糖値の変化を、「HbA1C(ヘモグロビンエーワンシー)」という指標でみると、緑茶粉末を飲んだ人たちは当初の6.2%が、2ヵ月後に 5.9%に。飲まなかった人たちは変わらなかった。飲まなかった人たちに改めて飲んでもらうと、同じように2ヶ月間で6.1%から5.9%に下がった。
一般にHbA1Cが6.1%以上だと糖尿病の疑いがあるとされ、6.5%以上だと糖尿病と即断される。逆に患者のHbA1Cを5.8%未満に維持できれば 優れた管理とされる。今回の成果は、糖尿病一歩手前の人が緑茶をたくさん飲むことで、糖尿病にならずに済んだり、発症を遅らせたりできる可能性を示した。
2グループで体格や摂取エネルギーに差はなく、緑茶からのカテキン摂取量が血糖値に影響したらしい。1日分の緑茶粉末は一般的な濃さの緑茶で湯飲み(約 100ml)約5杯分のカテキンを含み、粉末を飲んだ人では普通に飲んだ緑茶と合わせ1日に約7杯分のカテキンをとっていた。
研究の中心で、今春に静岡県立大から移った吹野洋子・常磐大教授(公衆衛生学)は「運動などの生活習慣改善とともに、食事の中で積極的に緑茶を取り入れて ほしい」といっている。
この記事を、ライオンズクラブの御茶屋さんにみせたら、「昔から御茶屋には糖尿病は居ませんでー」と言う返事が返ってきた。
六甲男声合唱団の皆さんも寄る年波で、生活習慣病にはご注意を。


 
 

 
   
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